避難民増え、古知屋前原へ 山入端立雄さん 収容所で(11)<読者と刻む沖縄戦>


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現在の名護市仲尾次。北谷村の羽地分所が置かれた

 北谷村(現嘉手納町)兼久を離れ、疎開先の羽地村(現名護市)に着いた山入端立雄さん(85)=読谷村=の家族は、中南部から逃れてくる避難民のために地元の人々が用意した避難小屋で暮らします。

 《羽地の避難生活は8日間ほどだったと思う。ここは敵の攻撃や爆弾もなく静かで、たまにトンボグヮー(偵察機)が飛来するだけであった。

 しかし、避難民は増えていくばかりで危険だと感じた父たちが別の避難場所を探索するために下山し、2日ほどして戻ってきた。そして、古知屋前原(くちゃめーばる)に移動することになり、先頭になって下り始めた。》

 「古知屋前原」は現在の宜野座村松田の南側の地域です。羽地から古知屋前原に移動したのは1945年4月中頃のことです。山入端さん家族と行動を共にする避難民もいました。途中で米軍の検問に出くわしましたが、父三良さんの指示で検問を避け、古知屋前原にたどり着きました。

 「古知屋前原にはまだ民家が残っており、家畜もいました」と立雄さんは語ります。そこへ日本兵の行方を追う米軍がやって来ました。立雄さんらが隠れていた小屋が襲撃されたこともあります。

 《日本軍の残兵の捜索であっただろうか、民家を巡回していた米兵が婦女子を拉致することも多く、姉たちは日中、ずっと天井裏に身を隠していた。》