「捕虜」になった認識なく 山入端立雄さん 収容所で(12)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
「古知屋市」が置かれた現在の宜野座村松田

 米軍は山入端立雄さん(85)=読谷村=の家族が避難した古知屋前原(現在の宜野座村松田)を収容地区とします。1945年5月頃、本島中南部の避難民を集め、中南部の戦場で米軍に捕らわれた住民も古知屋に収容しました。

 立雄さんは「捕虜」になったという認識はなかったといいます。「私たちは兼久から金武、名護、羽地を経て古知屋前原に移ってきた。金網に囲まれた収容所にいたわけではないし、捕虜になったとは考えていなかった」と振り返ります。

 米軍は古知屋の集落に地域司令室を置き、住民に食糧を配給していました。父の三良さんは食糧配給の係をしていたといいます。

 「アメリカが配給したのはトウモロコシや乾燥イモが入ったレーションでした。それだけでは足りず、ソテツを取って食べました」と立雄さんは語ります。

 三良さんは遺体の埋葬作業にも従事しました。

 《父は宜野座の野戦病院に使役され、南部戦線から運ばれてくる負傷者や戦死者の識別、死者の埋葬などを行い、その帰りに食糧を受け取ってくるという日々がしばらく続いた。》

 古知屋には多くの避難民が集まりました。米軍は45年9月に市制を実施し、収容地区単位に12市が生まれました。古知屋は「古知屋市」となります。10月初旬、人口は約2万人を数えました。