生家戻るも焼け跡に 山入端立雄さん 収容所で(13)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
現在の松田小学校

 1945年8月、山入端立雄さん(85)=読谷村=は現在の宜野座村に置かれた古知屋収容地区で日本の敗戦を知ります。風呂に入るため、ドラム缶でお湯を沸かしている時、「日本が負けたよ」と避難民が教えてくれました。特に感慨はありませんでした。

 「これまで、散々負けてきた。悔しくも悲しくもありませんでした」と立雄さんは語ります。

 収容地区の避難民が増え、食糧が不足します。父の三良さんは食糧調達に奔走します。

 《戦争は終結したということを聞いて、父は食糧を求めて中部方面まで足を延ばすようになった。「戦果」と称して、野積みされている米軍の食糧を持ち帰る日が数日おきにあった。その際に、自分の家屋敷の焼失と地形の変貌を知ることになる。》

 父の話を聞き、立雄さんも同郷の仲間らと共に、生まれ育った北谷村(現嘉手納町)兼久を訪れます。

 《目にしたのは焼失し、破壊された屋敷跡と、水釜から砂辺の先までの海岸線近くを黒い戦車や自動車が埋め尽くしている光景であった。ところどころにテントの兵舎がある。》

 9月に入り、立雄さんは古知屋初等学校(現在の松田小学校)に入ります。4年生でした。「学校といっても校舎はなく、青空学校です。黒板も帳面もありません。幼稚園みたいな感じでした」と振り返ります。