ふるさと今も金網の向こうに 山入端立雄さん 収容所で(14)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 嶋野 雅明
現在の嘉手納町中央区コミュニティーセンター

 古知屋収容地区で暮らしていた山入端立雄さん(85)=読谷村=の家族は1945年10月ごろ、嘉手納町嘉手納に移動します。海軍に志願した兄立盛さんも佐世保から戻ってきました。
 《嘉手納の一部、限定地域に戻ることが許され、父は先遣隊として嘉手納へ行った。戻ることが許されたのは後に旧部落と呼ばれた地域で、先遣隊はテント張りのツーバイフォーと呼ばれる仮設住宅を嘉手納本字を中心に建てていった。
 ほどなく私たちは避難地の古知屋前原から嘉手納に帰ってきた。各地に分散した避難者も次々と旧地に戻り、互いに戦禍を生き延びた喜びを語った。》
 山入端さんは「嘉手納アシビナー」と呼ばれた地(現在の嘉手納町中央区コミュニティーセンター)の青空教室で学びます。戦争前の軍国主義教育はなくなりました。
 《アシビナーの大木の下で子どもが集められ、紙箱を机に、セメントの入っていた袋を帳面にしての学習が始まった。》
 生まれ育った兼久は米軍が占有したままでしたが、後に旧屋敷や畑に出入りすることが許され、家族は農業に精を出しました。しかし、土地は返還されませんでした。ふるさとは今も金網の向こうにあります。
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 山入端立雄さんの体験談は今回で終わります。次回から與儀喜省さんの体験談を紹介します。