家族避難させ、学校向かう 與儀喜省さん 収容所で(15)<読者と刻む沖縄戦>


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與儀喜省さん

 101歳の與儀喜省さんから体験記が届きました。與儀さんは糸満市の出身で那覇市在住、現在は南風原町内の老人施設で暮らしています。北部の山中をさまよい、瀬嵩収容地区で暮らしました。子や孫に自身の戦争体験を伝えるためにつづった手記も参考に、與儀さんの戦中戦後の足取りをたどります。

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 與儀さんは1918年8月、高嶺村(現糸満市)大里で生まれました。三男です。父の喜俊さんは大里、母ウトさんは兼城村(現糸満市)照屋の出身。喜俊さんは20年から3期12年、高嶺村長を務めました。

 喜省さんは県立第一中学校、沖縄県師範学校で学び、教職の道に進みます。沖縄戦の直前は糸満国民学校に勤めていました。

 與儀さんの手記「我が家の沖縄戦記」で10・10空襲の体験を記録しています。家には母ウトさん、妻の信子さん、祖母ウトさんがいました。

 《私は妻と朝食を取っていた。そのとき那覇の方向からものすごい高射砲の音が聞こえてきた。空襲警報も出ないのに変だなと思いながら外へ出てみると、那覇の上空に黒い煙が点々と上がっている。》

 演習と思っていましたが、爆発音に驚き、家族を防空壕に避難させて学校に向かいます。

 《午前9時、学校に向かう。敵機が飛んでいないその隙を見ては走る。学校は無事である。4、5人の先生がおり、かねて造ってあった報得橋際の学校の防空壕に一緒に行く。》

 喜省さんの身に戦雲が近づいていました。