よりにもよってこんな時に、こんな話ではある。しかし、今だからこそともいえよう。6月30日にBPO(放送倫理・番組向上機構)の放送倫理検証委員会が、琉球朝日放送と北日本放送に対し、「番組で取り上げている事業の紹介が広告放送であると誤解されかねない」として放送倫理違反があったとの決定を下した。
昨今の放送離れ、新聞離れといわれる中で、視聴者・読者が離れれば当然、広告主もその媒体への広告出稿に二の足を踏むことになる。さらにコロナ禍が拍車をかけ、今期のマスメディアの営業収入は大変厳しいとの決算報告が相次ぐ状況だ。そうであれば、どうしても「悪魔のささやき」が聞こえることになる。これまでなら、あるいはいつもなら我慢する「禁じ手」を使いたくなるとの誘惑だ。
その一つが、番組・紙面と広告の境界線を緩めることである。具体的には「溶け込まし広告」と称されるような、見た目は通常の番組や新聞記事に見えるものの、その中に商品広告を組み込んで、番組や記事の信頼性を利用して、商品・サービスの信頼性を高め購読意欲に結び付けるといった手法がある。たとえばネットの場合は、むしろいかに上手に(ユーザーにわからないように)、自然な形で商品広告を行うかを競っている側面すらある。しかも、正当な手法として了解されてもきている。
出稿側の選別危険性
しかし新聞や放送の場合は、以前から記事や番組と広告は完全に峻別(しゅんべつ)することを必要としてきた。それは、とりわけ「報道」の独立性を守り信頼性を維持するための最低限の倫理と考えられてきたからである。それはまた同時に「広告」それ自体の正確性・信頼性を守るためのものである。
それゆえ、日本新聞協会の新聞広告掲載基準(1976年制定)は、掲載してはいけない広告として「誤解されるおそれがあるもの」とし、「編集記事とまぎらわしい体裁・表現で、広告であることが不明確なもの」を明示している。同様に日本民間放送連盟の放送基準(1970年制定)では、「広告放送はコマーシャルによって、広告放送であることを明らかにしなければならない」に始まり、89項から152項まで60を超える詳細な取り決めを定めている。それでも「プロダクトプレイスメント」(ドラマにおいて小道具や背景などに具体的な商品・サービスを表示させる手法)が甘すぎるのではないかなど、まだまだ解決すべき広告課題はある。
念のために確認しておくならば、広告も表現の自由の一形態であり、最大限自由な表現が保障されなければならない。しかし一方で、自社の商品・サービスを売らんがために、どうしてもギリギリを狙った表現が多くなる性質を有する。媒体側も、収入を得たいがためについ大目に見がちな側面を持つ。
したがって法制度全体としても、一般的な表現活動に上乗せするかたちで、広告表現独自の法規制を実施している。しかも、公正競争や消費者保護を法目的とした包括的な法規制(消費者保護法や景表法、独禁法など)に加え、業法と呼ばれる業界ごとの法・規則でより具体的な禁止事項を定めてもいる。これらの大原則は「虚偽と誇大」の禁止である。こうした表現そのものの制約にプラスして、だめ押しで先に触れた自主的な媒体規制をかけている。
広告規制の意味
新聞社では従来より、アドバトリアル(記事体広告)と称されるような、広告主の意向を組んだ記事の場合は明確に、紙面上でその旨を表示することを実施してきている。一見、特集紙面のように見えるページの紙面欄外にある「企画広告」などの表示がそれをあらわす場合が多かろう。しかし最初に触れたように、言うは易(やす)く行うは難(かた)しの側面を否定できない。
だからこそ「新聞人の良心宣言」(日本新聞労働組合連合、1997年制定)ではわざわざ「報道と営業の分離」の章を設け、記事と広告の区分のほか、「記者は営業活動を強いられることなく、取材・報道に専念する」との項目が入っているわけだ。記事にすることを条件に自紙への広告出稿を求めるような行為を厳に戒めるものである。
しかしよりやっかいなのは、こうした民間事業との関係よりも「国策」広告の場合である。電力会社の広告は国としての原発推進の紙面作りに影響を与えていたことが明らかになっている。少し前の裁判員裁判導入時の広告も、報道界を巻き込んでの推進キャンペーンであった。現在進行形で言えば、在京のメディアを中心に溢(あふ)れるマイナンバー普及の広告もその類いであろう。そしてなによりも、東京オリパラもそうだ。
新聞にとって行政発の広告は無視できない大きな割合を占めるものだ。一方で、読者(市民)にとって、当該地域に広く普及する新聞を通じて得る行政広報の一つとして、公的な広告は欠かせない「情報」でもある。だからこそ、出稿する側される側の双方に緊張感が必要だ。掲載する側にとっては独立性をきちんと担保することであって、いわゆる「経営と編集の分離」と呼ばれてきたものである。形式的には編集責任者が経営者を兼ねないことで、見た目の独立性を示してきた。偶然、いま沖縄地元紙は両紙とも編集責任者が役員であるだけに、より分かりやすい、新しい透明性を担保する仕組みを読者に示すことが必要であろう。
しかしより重要なのは、出稿側(政府・自治体)の公正性である。具体的には、先に挙げたような大型キャンペーン広告(当然広告料も大きなものになる)を、分け隔てなく公平に出稿するという姿勢と、それを裏付ける数字の公表だ。いわゆる、政府からみて言うことを聞きそうな媒体、あるいは日ごろ盾突くことが少ない新聞社にのみ出稿するということが起きかねないからだ。以前は良い悪いは別としての「横並び」出稿だったものの、最近はその意味での勝ち組負け組がはっきりしてきている様相をみせている。近い将来あるかもしれない憲法改正国民投票時においても、こうした出稿側の「選別」が行われるとすれば、極めて由々しき問題だ。そうならないためには、載せる側だけではなくむしろ出す側も含め、いまから厳しい目を向け続けていくことが必要だ。
(山田健太、専修大学教授・言論法)