那覇の惨状に呆然 與儀喜省さん 収容所で(16)<読者と刻む沖縄戦>


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旧報得橋の一部。近くに糸満国民学校の壕があった

 10・10空襲から2日後の1944年10月12日、與儀喜省さん(101)=那覇市=は、義妹の安否を確認するため親類と共に那覇を訪れます。與儀さんは空襲後の那覇の惨状を手記に記録しています。

 《那覇は見る影もなく無残な姿で、一面の瓦礫(がれき)の山と化し、焼け跡がくすぶって煙があちこちに立っている。黒糖倉庫が焼け、黒糖が燻(くすぶ)ってその甘い匂いが鼻をつく。死体があちこちに散見され、奥武山の海にも浮いている。》

 與儀さんは焼け跡の中で立ち尽くします。

 《家という家がすべて焼き尽くされ、広大な街が遠くまで見渡され、非常に狭い感じである。文字通り全滅した街の焼け跡の中に立って、爆撃のものすごさを思い知らされて、呆然(ぼうぜん)とするばかりである。》

 空襲以後、緊迫の度合いが濃くなります。與儀さんが勤める糸満国民学校の職員、生徒は陣地構築や壕掘りに追われます。

 《高等科2年の担任であった私は、生徒と一緒に毎日作業に出掛けたが、生徒達の活躍は目覚ましかった。小禄飛行場造りや町の南側で戦車妨害の土手造り、字国吉の山の中の壕掘りなどであった。》

 明けて45年は元日早々の米軍機襲来で正月どころではありませんでした。2月、県は中南部住民の北部疎開計画を立てます。與儀さんらも北部へ逃れます。