艦砲射撃の中、大宜味へ疎開 與儀喜省さん 収容所で(17)<読者と刻む沖縄戦>


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現在の糸満市大里の集落

 與儀喜省さん(101)=那覇市=が暮らす高嶺村(現糸満市)の北部疎開第一陣は1945年3月18日のことです。指定の疎開先は大宜味村でした。家族は疎開には消極的でしたが、説得の末、祖母と母、伯母を第一陣で送り出します。與儀さんは手記で回想しています。

 《祖母たちが出た後は誠に淋(さび)しい。永年住み慣れた家を後にして不自由な山原生活をする祖母たちの心情を思う時、何とも言えない感情がこみあげてくる。まして老い先短い祖母のことを思うと、涙があふれ出る思いがする。》

 喜省さんは3月24日に高嶺村大里を出ます。この日、米軍の艦砲射撃が始まりました。食糧の米や毛布、お酒などを背負い、父の喜俊さん、妻の信子さんと共に夜9時ごろ出発します。その時、信子さんは長男を身ごもっていました。

 《やがては戦場になるであろう我が村、我が家を後にして国頭へと向かう。振り返り見れば、煌々(こうこう)と照る月の下に我が村は静まりかえっている。これが見納めかと思う。さすがに心の残る思いがする。》

 3人は首里、宜野湾、石川、金武、名護を経て29日に大宜味村津波に到着します。約10日ぶりに家族がそろいました。皆、涙をこぼし無事を喜び合います。

 《今ここに祖母と母と伯母に会えたこの感激に心が震える。食糧の不自由は覚悟しなければならない。》