迫る米軍、山奥に避難 與儀喜省さん 収容所で(18)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
大宜味村の平南川。上流に避難小屋が造られた

 高嶺村(糸満市)大里から避難してきた與儀喜省さん(101)=那覇市=は大宜味村津波の平南川沿いに造られた避難小屋に身を寄せます。

 津波集落の歩みを記録した「大宜味村津波誌」(2004年刊)によると、平南川沿いに津波住民が築いた50棟ほどの小屋に約600人ほどの避難民を収容しました。

 與儀さんの手記によると家族ら6人は、津波に到着した1945年3月末から5月上旬までの間、平南川周辺で4度移動を繰り返しています。米軍機に見つかる恐れがあったことなどが移動の理由です。自ら小屋を建てたこともありました。

 沖縄本島に上陸し、北部に進攻した米軍が大宜味村にも姿を見せます。家族は昼間、山中に逃れます。與儀さんは手記でこう振り返ります。

 《西海岸の道路は、米軍のトラックの往来が激しくなり、大通りには出られなくなった。今隠れている小屋は、敵にすぐ見つかってしまう危険があるので、さらに山奥に避難しなければならなかった。》

 與儀さんは、山中での避難生活は「至って平穏、退屈」と振り返っています。父の喜俊さんは「山原の疎開 山羊の草お菜(かず) あん苦りしゃあてぃん 勝つる迄や」という琉歌を詠みました。

 わずかな食糧で命をつなぎながら、家族は終戦の日を待っていました。