大城文進さん「引き留めておけば」 破片が降り注ぐ中、飛び出した友が犠牲 伊江港LCT爆発事故


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被爆慰霊碑の前で当時の思いを振り返る大城文進さん=11日、伊江村内

 【伊江】沖縄戦の傷が癒える間もない1948年8月6日、伊江港で起きた米軍弾薬処理船(LCT)爆発事故。米軍の爆弾を処理搬送する船が荷崩れを起こして爆発し、107人の命が奪われた。当時14歳だった大城文進さん(86)=伊江村東江前=は、一緒に海で遊んでいた友人が事故で命を落とした当時の出来事を「話したくない思い出だが、犠牲になったあき坊(よしあき)がいたことを忘れず、伝えるためにも話さないといけない」と当時を振り返った。

 爆発事故が起こった時間に、大城さんと海で一緒に遊んでいたのは、年下のよしあきさん。よしあきさんは父親を戦争で亡くしており、母親が港で商売をしている間、毎日のように一緒に遊んでいた。

 「大変なことになった」。爆発の衝撃は大きく、そこら中に破片が降り注いだ。すぐに浮桟橋の下に隠れたが、よしあきさんは港にいる母親が心配になり、破片が降り注ぐ中飛び出していった。

 その時に見たよしあきさんが最後の姿だった。よしあきさんは港の方で、破片に当たり亡くなったと聞いた。

 「母親があき坊をみとったと聞いて、今でも胸が詰まる思いになる。もう少し(浮桟橋に)引き留めておけば良かった」

 事故の翌日、港に向かうと破片が散乱し、焼け焦げて身元の分からない死体がたくさんあった。家族が見つからず、パニックになっている人もいた。

 当時の心境を大城さんは「私はまだ子どもだったが、あの人もこの人も亡くなったかと、寂しい気持ちが強かった」と語った。

 毎年8月6日に開かれている慰霊祭は今年、新型コロナウイルスの影響で中止になり、自由参拝となった。焼香をした大城さんは「二度とこんなことがあってはいけない。平和な世の中になってほしい」と願った。
 (喜屋武研伍)