「友軍進撃」噂に惑わされる 與儀喜省さん 収容所で(19)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
現在の名護市安部集落

 1945年3月末、家族と共に大宜味村津波に避難した與儀喜省さん(101)=那覇市=は山中でさまざまな噂を聞きます。「戦況は有利に展開している」「関東軍の精鋭が那覇に上陸して進撃している」などです。噂話は避難民を惑わせます。

 與儀さんは山中での噂話を手記に書いています。

 《東海岸は一週間前に具志川村まで友軍が来て、やがて東海岸の道路は確保されて、通行できるようになるに違いないという。友軍は今頃金武村に入ったが、やがて大手を振って島尻へ帰れる、今帰れば大豆の収穫は大丈夫、できるなどと疎開者同士話し合って、喜んだ。》

 噂を信じた高嶺村(現糸満市)の避難民は帰村を目指します。與儀さん家族も5月7日、津波を離れ、山を越えて東海岸沿いに島尻へ向かおうとしました。しかし、南に行くことはできず、久志村(現名護市)安部の北側に位置するフクジマタ(福地又)にとどまります。

 家族が安部の集落に移動したのは6月上旬です。食糧を得るため、妻信子さんの着物を食糧に替えます。

 《字民が、生後1年位の子豚を処分しているのを見つけて、せがみにせがんで、結婚記念の信子の一張羅の着物と豚肉一斤を替えたのもその頃である。油ものが全然ないその頃、肉一斤は大変貴重でありがたいものであった。》

 その後、家族は米軍の指示で瀨嵩収容地区へ移動します。