食べ物に平和を実感 與儀喜省さん 収容所で(20)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 慶田城 七瀬
現在の瀬嵩御宮の入り口

 與儀喜省さん(101)=那覇市=がいた久志村(現名護市)安部に1945年7月上旬、米軍がやってきます。米軍は避難民を1カ所に集め、「戦争は終わった。戦いに米軍は勝利し、沖縄を占領した」と告げました。さらに、瀬嵩の収容地区に移動するよう避難民に命じます。

 瀬嵩に移動せず、山に逃げる者は「敵として撃つ」とも米軍は告げました。住民は米軍に負けたことを思い知らされます。

 瀬嵩まで家族をどう運ぶか與儀さんは悩みます。「捕虜」となることにも戸惑いがありました。その時の心情を手記の中でこうつづっています。

 《最大の衝撃は、米軍の下に捕虜となることである。皇国の必勝を信じていた当時の人々には、捕虜となることは平静な心ではできず、一大決心がいる。》

 逡巡(しゅんじゅん)の末、與儀さん家族は瀬嵩に移動します。途中まで米軍のトラックに乗ることができました。夕方、瀬嵩に着いた家族は米飯の配給を受けました。

 《久しぶりの白いご飯を口にして、大の男が子どものように喜んでいる。無理もない、お米を食べたのは何時の日のことか。ソテツが一転白いお米。食べ物に平和を実感する。》

 瀬嵩は大勢の避難民でごった返していました。45年8月の時点で3600人の避難民がいました。與儀さんの家族は海側の拝殿(瀬嵩御嶽)の軒下で過ごします。