収容地区内に小学校 與儀喜省さん 収容所で(21)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 慶田城 七瀬
子どもたちが学んだ名護市瀨嵩の砂浜

 大宜味村や久志村(現名護市)の山中で避難生活を送っていた與儀喜省さん(101)=那覇市=は瀨嵩の収容地区で戦後の歩みを始めます。収容地区内の各集落は市となり、瀨嵩、大浦、二見など久志村の二見以北に9つの市が生まれました。中心は司令部が置かれた瀨嵩でした。

 《山原の山の中をうろつき回って、やっとたどり着いたところが瀨嵩であった。田舎の一寒村が都会のようになった。校舎が軍政府になった。》

 校舎とは久志国民学校(後の久志小学校)です。

 《軍政府になった学校の校舎には星条旗がひるがえり、この様子を見て「これからの日本の教育は」などとあれやこれやと思い悩み、眠れぬ夜が続いた。》

 瀨嵩の軍司令部は1945年7月下旬、子どもたちを集めて小学校をつくるよう命じます。男子部、女子部、幼年部の3部が設けられました。教科は国語、算数、理科、体育、音楽、英語です。教室はなく海岸の松の木の下で子どもたちは学びました(沖縄市町村長会編「地方自治七周年記念誌」)。

 與儀さんは男子部、妻の信子さんは女子部に勤務します。

 《教室も教科書ももちろんなく、海岸の砂浜で話をしたり、遊戯をしたり、砂に字を書いたりのままごと遊びである。栄養不良の子ども達ばかりで、毎日豆乳が与えられて、さすがはアメリカだと感心させられた。》