沖縄民政府文教部に就職 與儀喜省さん 収容所で(23)<読者と刻む沖縄戦>


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與儀さんが暮らした旧石川市の3区周辺

 與儀喜省さん(101)=那覇市=は1946年1月14日、久志村(現名護市)の瀬嵩収容地区から糸満へ移ります。與儀さんはテント小屋の糸満初等学校に勤めました。自宅のあった高嶺村は米軍が占有しており、戻ることはできませんでした。

 この年4月、與儀さんは沖縄民政府文教部に勤めることになり、石川市に移り住みます。戦後初の沖縄側行政機関・沖縄諮詢(しじゅん)会の教育部長で、與儀さんと同じ高嶺村(現糸満市)大里出身の山城篤男さんらの誘いでした。

 住まいは石川市3区の長屋です。「舞天(ぶーてん)」の名で知られる小那覇全孝さんが隣に住んでいました。手記で紹介しています。

 《隣には嘉手納で開業していた歯科医で、歌三線に優れて「舞天」と称していた小那覇全孝さんが住んでいた。全孝さんは当時文化部に勤めており、家では娘さんたちに踊りを教えていた。》

 舞天さんは46年作の「石川小唄」(石川かぞえ唄)で当時の石川の様子を描いています。

 「では一つとセー 一二三四五六七(ひふみよごろくなな)通り いろはにほへと 塵(ちり)横町 碁盤十字の 茅葺きテント町 これが沖縄一の町ではないかいな」

 沖縄民政府は50年11月に沖縄群島政府となり、與儀さんは文教部庶務課に勤務します。復帰運動を闘い、初の公選主席となる屋良朝苗文教部長の下で校舎建設に関わりました。