沖縄群島政府文教部に勤めた與儀喜省さんは屋良朝苗文教部長の下で校舎建築を担当します。2015年1月27日付の本紙投稿で当時を振り返ります。
《戦後の校舎は茅葺き教室であったが、校舎改築は遅々として進まなかった。屋良部長のいら立ちは大変なもので、米国民政府教育部長コバート氏の事務所に日参して校舎建築の要請をされていた。》
その後、群島政府を辞め、沖縄教職員会長に就任した屋良さんは喜屋武真栄さんと共に全国を行脚し、戦災校舎復興の募金を呼び掛けました。
與儀さんが子や孫のためにつづった沖縄戦体験の手記に「奥村」という米軍の通訳が登場します。2015年、70年ぶりに来沖したハロルド・オクムラさんと瀨嵩で再会しました。
「91歳のオクムラさんに長い時を経て再会できたのは思いがけないことだった。健康のありがたさ、記録することの大切さを痛感した」と振り返ります。
戦後75年を迎え、與儀さんは「ばかな戦争をした。戦争をしてはならない」との思いを深めています。本紙への投稿、琉歌や短歌などの創作を楽しみながら、平和の尊さをかみしめています(本稿では社会福祉法人千尋会、名護市史編さん係の協力を得ました)。
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與儀喜省さんの体験記は今回で終わります。次回から豊永スミ子さんの体験記です。