戦争に備え、壕掘る 豊永スミ子さん 収容所で(25)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 慶田城 七瀬
豊永スミ子さん

 嘉手納町の豊永スミ子さん(81)から体験記が届きました。豊永さんは西原町の出身です。父と弟を砲撃で失います。名護市久志の収容地区ではマラリアに苦しみました。

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 豊永さんは1939年5月、西原村(現西原町)翁長に生まれました。旧西原村役場の近くに家がありました。現在、村出身の戦争犠牲者を追悼する「西原の塔」のある場所です。

 父の小波津三良さんは西原村小波津の出身です。幼い頃に父親を亡くし、22歳の時にメキシコへ移住しました。「反物の店を開いたものの、苦労したようです」とスミ子さんは語ります。

 三良さんは55歳の時に西原村に戻り、同じ小波津出身のウシさんと結婚します。2人の間に長女のスミ子さん、次女のマサ子さん、長男の政文さんが生まれました。

 44年9月ごろ、翁長集落に近い西原国民学校(現在の西原中学校の敷地)に日本軍の第62師団(石部隊)第11大隊が本部を置き、児童は公民館などで学ぶようになります。スミ子さんの家の近くにも分校ができました。「家族は私が幼稚園に上がるのを楽しみにしていました」とスミ子さんは振り返ります。

 三良さんは避難壕造りにいそしむようになります。「家から300メートルくらい離れたところ。現在の翁長団地の下辺りにあった祖先の墓の左側に壕を掘っていました。毎日、つるはしを振るっていました」

 家族が戦雲に飲み込まれようとしていました。