日本兵に驚き、壕出る 豊永スミ子さん 収容所で(26)<読者と刻む沖縄戦>


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かつての村役場の地にある慰霊碑「西原の塔」

 豊永スミ子さん(81)=嘉手納町=の父、小波津三良さんは米軍が沖縄本島に上陸した1945年4月1日以降も西原村(現西原町)翁長にある祖先の墓で壕掘り作業を続けます。

 スミ子さんの記憶では、家族はしばらくこの壕にとどまり、戦闘が激しくなった5月中旬に南部へ避難します。

 《私たち家族は首里から出てきた日本兵に誘導され、西原村から島尻に向かって、村人と共に歩いていました。》

 翁長の壕を出たスミ子さん、父三良さん、母ウシさん、4歳の妹マサ子さん、2歳の弟政文さんの家族5人は西原村池田を経て南風原村(現南風原町)の宮平、喜屋武、山川を歩きます。

 西原を出た時は晴れていましたが、途中から雨期に入りました。「足元がぬかるんでいて、滑ったり転んだりした記憶があります。地理も分からず、さまよっているという感じでした」とスミ子さんは語ります。

 島尻へ向かう途中、幾つかの壕に入りました。ある壕では空腹でぐずる子どもに怒った日本兵が銃を抜く仕草をしたため、驚いた三良さんの指示で壕を出たこともありました。

 歩き疲れたマサ子さんを三良さんはもっこで担ぎ、政文さんをウシさんがおぶっていました。頭の上には鍋などの炊事道具を載せていました。家族は雨の中、東風平村(現八重瀬町)に入ります。