父と弟を砲弾で失う 豊永スミ子さん 収容所で(27)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
現在の糸満市真栄平の集落

 西原村(現西原町)の壕を出た豊永スミ子さん(81)=嘉手納町=の家族5人は南風原村、東風平村(現八重瀬町)を経て糸満に至ります。東風平に入ったのは1945年6月。日本軍は南部に撤退しています。

 「東風平では、日本兵と民間人がごちゃごちゃになっていました」と豊永さんは語ります。

 真壁村(現糸満市)真栄平で家族は悲劇に襲われます。父の三良さん、弟の政文さんが砲撃で命を奪われます。

 「真栄平にいる時、飲むものもなくなり、弟の政文は『まんまん、まんまん』と泣き出しました。母はおんぶしていた弟を父に渡して、何かを取り出そうとした時、バンとやられました」

 砲弾が炸裂(さくれつ)し、飛んできた破片が政文さんの頭部を直撃した後、三良さんの腹部に当たりました。政文さんは即死し、スミ子さん、母のウシさんもけがをします。妹のマサ子さんは無傷でした。

 「父は破片を受け苦しんでいました。私は父に取りすがって『お父(とう)、死なないで』と泣きました。母も『あいえなー、ちゃーすがやー』と泣いていました」

 近くの空き屋の床に三良さんを寝かせ、三良さんの腕を枕にして政文さんの遺体を横たえました。

 三良さんは「家族を頼む。早く逃げて」と言い残し、息を引き取りました。日本軍の組織的戦闘が終わる直前の6月21日ごろのことです。