糸満から米軍船で久志へ 豊永スミ子さん 収容所で(28)<読者と刻む沖縄戦>


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現在の糸満市摩文仁の集落

 父の小波津三良さん、2歳の弟政文さんを失い、豊永スミ子さん(81)=嘉手納町=と母ウシさん、4歳の妹マサ子さんはぼうぜんとします。

 「そのまま真栄平で死ぬつもりでうずくまっていましたが、砲撃がやみました。2人を埋葬することもできないまま、『必ず迎えに来るからね』と言って、後ろ髪を引かれる思いで逃げたんです」

 西原の壕から糸満に至る経路をスミ子さんは「ちゃん、くちんだ、ゆざ、めーでーら、うーど、くみし」とうちなーぐちでたどります。現在の南風原町喜屋武、八重瀬町東風平、糸満市与座、真栄平、大度、米須です。

 「いつ死ぬか分からない。今かもしれない」という恐怖を感じながら、南部に逃げてきた避難民と日本兵が混在する地を3人はさまよいました。

 「ずいぶん歩きました。まっすぐ歩くのがやっとです。たくさんのけが人、死んだ人を見ました。死臭や爆弾の臭いがしました」

 スミ子さんは一時、ウシさんらとはぐれ、道に迷いました。その時、息絶えた母親の乳を吸っている子どもを見ました。悲惨な戦場の姿を今も忘れることはできません。

 歩き続けた末、3人は米軍に捕らわれます。場所は「摩文仁あたりだった」とスミ子さんは話します。その後、けがの手当を受け、米軍の船で久志村(現名護市)の収容地区に向かいます。