誰よりも牛を愛し、愛された 「闘牛女子」久高幸枝さんへ 最初で最後のラブレター


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 ピンクのポロシャツがトレードマークの小柄な女性。彼女は誰よりも牛を愛していた。

 「闘牛写真家」の久高幸枝さんが5月28日、45歳の若さでこの世を去った。沖縄県うるま市が「闘牛のまち」として知られるようになった背景に、久高さんの存在は欠かせない。「牛と人とのストーリーを伝えたい」。受け継がれてきた伝統を次の時代へつなごうと全力だった久高さん。記者もその知識と思いに感銘を受けた「ファン」の一人だった。彼女の功績、人となりをつづる。

(中部報道部・砂川博範)

トレードマークのピンクのポロシャツを着て愛牛「隼ハート」と並ぶ久高幸枝さん(妹の彩さん提供)

代々続く「牛からや―」の娘

 1975年1月、旧石川市(現在のうるま市石川)で代々続く「牛からやー」(牛飼い)の家に生まれた。保育園から帰ると牛と一緒に遊び、草やりをした。文字通り牛とともに育った。小学5年の時、父の一眼レフカメラに興味を持ち、牛を撮り始めると、そのままのめり込んでいった。

 久高さんの写真は牛への愛情で満ちていた。あごをなでられ気持ちよさそうに目をつぶったり、一緒に散歩に出掛けて脇道で寝そべったり。久高さんの前で牛はさまざまな表情を見せた。

 2013年には、闘牛の迫力や熱気を鮮やかに捉えた「写真集 闘牛女子。」を出版。牛に愛情を注ぐ牛主らの表情も切り取り、話題となった。久高さん自身も「闘牛女子」として一躍知られる存在に。15年からは約50頭の闘牛が登場するカレンダーの写真も手掛け、17年には写真集の続刊も出した。

2017年に出版した写真集「闘牛女子。2」

 久高さんの父・唯志さん(67)が若かりし頃、県内各地で闘牛大会が盛んに行われていた。毎週のように大会が開かれた頃もあったという。さまざまな娯楽が生まれる中で、闘牛人気は徐々に衰えていき、牛主の数も減っていった。ただ、最近は少しずつ人気が回復してきている。

 2007年に屋根付き屋外施設の石川多目的ドームが完成し、観戦しやすくなったことも大きな理由だが、「闘牛女子」仲間でもある仲宗根みゆきさん(41)は久高さんの功績を挙げる。「毎日フェイスブックなどSNSで積極的に発信していた。大会があるたび告知もして、闘牛を身近に感じる人が増えた」

男性の中高年ばかりだったファン層が

 写真集のタイトルから生まれた「闘牛女子」という言葉も、闘牛が脚光を浴びる契機になった。久高さんが中心となって闘牛仲間の女性でおそろいのピンクのポロシャツを作ってPRし、2016年と19年には「闘牛女子杯」と冠した大会も開かれた。

 久高さんと一緒に闘牛女子杯を実現させた胡屋闘牛組合の當山哲次さん(47)によると、久高さんへの感謝の意味も込めて闘牛女子杯を設けたという。當山さんは「闘牛のことになると人一倍熱が入っていた。自分のことよりも他人や牛のことを優先して動く人だった」と振り返る。

「闘牛女子」で初の交流会を開き記念撮影する参加者たち=2017年8月

 かつては県内の中高年男性が主な観客だったが、最近では若い女性や家族連れ、観光客なども観戦するようになった。久高さんの活動が「闘牛は荒々しい」というイメージを少しずつ変えてきた結果といえる。久高さんは観光客や県外の牛関係者らとも積極的に交流し、知人が全国各地にいた。久高さんを通じて闘牛ファンになった人も多い。どうすれば闘牛が盛り上がるか、それを常に考えている人だった。

家族連れなどで闘牛大会を楽しむ満員の観客=2018年11月11日、うるま市の石川多目的ドーム

愛だけじゃない、信念

 「闘牛が好き」という理由だけで活動していたわけではない。大会へ足を運ぶ人が増えれば、その分だけ牛主への配当金が増える。配当金が増えれば「もっといい牛を育てたい」というモチベーションにつながる。牛の世話をしながら、他の仕事で生計を立てる牛主に少しでも還元したい―。そんなことを考えていた。

 闘牛を後生に残すため、行政にも働き掛けた。2018年7月、闘牛はうるま市の無形民俗文化財に指定された。闘牛の文化財指定は、新潟や愛媛などで先例はあったが、県内では初めてのことだった。闘牛関係者の取りまとめに尽力したのが久高さんだった。

 指定の1年半前に久高さんらが中心となってシンポジウムを開催。会場は立ち見が出るほどの盛況ぶり。文化財指定への機運が一気に高まった。妹の彩さん(39)は言う。「闘牛が動物愛護の観点から反発を受ける中で、どうすれば守り抜けるか姉は考えていた」

 19年10月には、うるま市が「闘牛のまち」を宣言。「大会以外の場でも牛と触れ合えて学べる『闘牛パーク』を造りたい」と語っていた久高さん。ますます腕の見せ所だと周囲も期待する中、病が久高さんの前に立ちはだかった。

牛の前でピースする久高さんの写真。亡くなる数日前に撮影されたものだ(彩さん提供)

さようなら、そしてつながれるバトン

 今年1月に不調を訴えて入院。最初の1週間は意識のない状態が続いた。小さい頃から片頭痛を抱え、成人後も脳動脈瘤(りゅう)や低髄液圧症候群などの病気と闘い、入退院を繰り返してきた。だが、長期間意識がなくなったのはそのときが初めてだった。

 妹の彩さんが打ち明ける。「本人はいつ何が起きてもおかしくないと感じていたと思う。退院してから、遺影の写真を指定していた。飼牛の『隼ハート』を引き継ぐ段取りや、これまで撮ってきた写真の管理についても話し合った」

 そして5月28日、帰らぬ人となった。

闘牛大会で観客席の最前列でカメラを構える久高幸枝さん=2017年6月

 告別式には県内外から千人近くの人が訪れ、早すぎる死を悼んだ。「幸枝は闘牛だけでなく乳牛、肉牛、水牛と種類に関係なく牛が好きだった。牛が好きな人とは誰とでも仲良くしていた。これだけ多くの人に愛され、幸せだったと思う」。父唯志さんはそう語った。

 豚熱(CSF)や新型コロナウイルス感染症の影響で、うるま市では1月以降、闘牛大会が開催されていない。彩さんは姉が生きた証に「再開したら闘牛女子杯を続けたい」と構想を練る。

 久高さんが生前残した言葉がある。「牛がいないと自分はいない」。まさに牛とともに生き抜いた生涯だった。

~ 取材後記 ~

 取材でたくさんお世話になった久高幸枝さん。これまで触れる機会のなかった自分に闘牛の魅力を教えてくれた。闘牛への愛情あふれる笑顔が今でもありありと目に浮かぶ。

 自分と同じように久高さんによって闘牛の魅力を知った人は多い。彼女の活動や功績をきちんと形に残しておきたかった。妹の彩さんは「姉が生きた証」として大会継続を誓った。記者としてできることは?久高さんがいなければ今のうるま市の闘牛の活況はない。

 この記事を通して少しでも多くの人に伝われば幸いだ。久高さんへの「はなむけ」として。