「やっぱり捨てられたんだ」 豊永スミ子さん 収容所で(29)<読者と刻む沖縄戦>


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名護市嘉陽と安部の間にある海岸

 父と弟を失い、米軍に捕らわれた豊永スミ子さん(81)=嘉手納町=と家族は糸満で米軍に捕らわれ、久志村(現名護市)の収容地区に送られます。

 《母と私と妹の3人は負傷しながらも何とか生き残り、摩文仁方面で米軍の捕虜となりました。傷の手当てを受けた後、すぐに船で運ばれ、北部の久志村安部と嘉陽の間にある海岸に下ろされました。》

 鉄板の船底が熱かったのを覚えています。船の中では皆がおびえていました。「これから海に捨てられるんだよと言って、大人たちも泣いていました」と豊永さんは語ります。

 海岸は何もない所で、食糧もなく「ああ、やっぱり捨てられたんだ」と感じたといいます。豊永さんは海岸近くのテント小屋に移動し、暮らすようになります。「おそらく嘉陽だったと思います」とスミ子さんは語ります。集落には小川が流れていました。嘉陽小学校にあった二宮金次郎像を覚えています。

 《そこは食べる物もなく無人島のような所で、まさに米軍の捨て場所―。物資も届かず、あるものと言えばテントのみ。焼けるような暑さの中、栄養失調で命を落とす人も多く出ました。私たちは食べ物探しから始めました。アタビーやチンナン、桑の実、野イチゴなどは子どもにとってはごちそうでした。》

 ソテツの実を集めたり、寝床を作るのは大人の仕事でした。