米兵への恐怖心 消えず 豊永スミ子さん 収容所で(30)<読者と刻む沖縄戦>


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旧嘉陽小学校。米軍の部隊が使用した

 摩文仁村(現糸満市)摩文仁で米軍に捕らわれ、収容地区となった久志村(現名護市)嘉陽のテント小屋にいた豊永スミ子さん(81)=嘉手納町=の家族は食糧探しに追われます。

 「母はソテツの実を探し、粉にして天ぷらを揚げました。モービル油(エンジンオイル)で揚げたんです。子どもたちも食べ物探しに一生懸命ですよ。貝を拾って、川で洗ったことを覚えています」

 その頃、集落にいた米兵の姿が記憶に残っています。

 「大きな黒い人、赤い人が集落に立っていました。今考えると赤い人というのは日焼けして赤くなった白人兵のことです」

 米兵から菓子をもらうこともありました。恐る恐る菓子を口にしたと言います。

 「米兵はチョコをくれようとするけど、毒が入っているかもしれないと思い、食べることができません。すると米兵は自分の口に入れて食べて見せるんです。それを見て初めて私たちはチョコレートやガムを食べました。おいしかったですよ。怖かったけれども優しいところもあるな、と子ども心に思いました」

 その後も米兵からチーズが入った缶詰やポークなどをもらいました。しかし、米兵への恐怖心は消えることはありませんでした。「戦後になっても夢の中に黒い人、赤い人が出てきて苦しみました」と豊永さんは語ります。