叔父と祖母、マラリアで他界 豊永スミ子さん 収容所で(31)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
現在の名護市嘉陽の集落

 豊永スミ子さん(81)=嘉手納町=の家族が暮らす久志村(現名護市)嘉陽に同じ久志村の汀間から叔父の家族がやってきました。「私たちが嘉陽にいるという噂を聞いてやってきたようです」と豊永さんは語ります。

 嘉陽は米軍に収容された避難民であふれ返るようになります。1945年8月の時点で約4400人余りの人が嘉陽にいました。避難してきた人は軒下に入ったり、畑にかやぶきの小屋を造ったりして暮らしました(名護市史本編3「名護・やんばるの沖縄戦」)。

 戦場体験のある叔父は砲弾の破片で負傷したスミ子さんのことを気にしていたといいます。

 《戦地で右胸を負傷し、兵役も済んで帰ってきていた母の弟である叔父が、負傷して布で首から吊(つる)していた私の右腕を見て「昼夜曲げて吊したままでどうするんだ。動かなくなるぞ」と言って、曲がった腕を伸ばしたりしました。私は痛かったけど我慢しました。そのおかげで腕を動かせるようになりました。》

 「今でいうリハビリでした」と豊永さんは話します。その叔父は程なくして亡くなります。マラリアが蔓延していました。

 《叔父はマラリアであっけなく他界しました。私は悔しくて悔しくてシクシクなきました。そして母方の祖母も後を追うように亡くなりました。》

 その後も家族は次々とマラリアに襲われました。