キビ畑→飛行場→住みやすい地へ着々 沖縄市比屋根・高原・泡瀬<息づく街・変わる街並み>③


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泡瀬飛行場返還後に区画整理され、市街地になった比屋根、高原、泡瀬地区(又吉康秀撮影)

 沖縄市内を通る国道329号の東側に位置する比屋根、高原、泡瀬の一部地域には閑静な住宅街が広がる。米軍によって建設された泡瀬飛行場が1977年に返還された後、地主らが「市比屋根土地区画整理組合」を86年に設立し、同地域での区画整理事業が始動した。市内の新拠点地区として住みやすさや景観を重視した街づくりを構想した。

 戦前はサトウキビ畑や農地が広がっていた。高原で生まれ育った宮里盛雄さん(84)は、自宅の窓を指さし「ここから東海岸を一望できた。勝連半島から上る朝日の位置で季節の移り変わりが分かったよ」と振り返る。設計士だった宮里さんは区画整理事業でも監事として携わった。

 沖縄戦で上陸した米軍は旧美里村(現沖縄市)の東部地域に泡瀬飛行場を建設。約30戸あった比屋根東部の東原(あがりばる)屋取集落や高原の天理教の前屋取集落、農地などが接収された。住民たちは滑走路周辺のわずかな土地で農業を続け、製塩工場を建て復興の道を歩んだ。

 返還後は市比屋根土地区画整理組合が中心となって街づくりを進め、公共施設や住宅、商業施設が立ち並ぶ市街地へと変化した。水はけが悪く冠水に悩まされた土地だったが、区画整理事業で排水路を整備。県外の新興地域などを視察し、施策に取り入れた。

 一方、隣接する泡瀬地域では、県による泡瀬地区土地区画整理事業も同時期に実施され、東部地域の開発が一気に進んだ。人口増に伴い、高原小学校の児童数も増え、2008年4月、新たに比屋根小が開校した。

 沖縄市比屋根土地区画整理組合の初代理事長の宮里清輝(せいき)氏は県土地区画整理組合連合会長も務め、電柱の地中化の普及に取り組んだ。比屋根土地区画整理事業では、原則として住民の敷地内に電柱を建てることを組合で確認した。

 事業は10年度に完了。当初目指した人口8千人を上回り、今年8月1日までに1万人を超えている。宮里さんは「人口が増えたのは住みよい環境が整えられたということだ」と喜んだ。

 組合の役員らはほとんどが他界し、かつての原風景や土地の歴史を知る人は少なくなった。「第2、第3世代の人たちも自分が住む地域について理解を深めてほしい。歴史を知ることで新しい未来はつくられる」と希望を託した。
 (下地美夏子)

米軍によって建設された泡瀬飛行場。写真奥に見えるのは勝連半島(1945年7月31日撮影、県公文書館所蔵)