マラリアの脅威 祖父にも 豊永スミ子さん 収容所で(32)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
現在の名護市嘉陽の集落

 豊永スミ子さん(81)=嘉手納町=らがいた久志村(現名護市)嘉陽でマラリアが広がります。負傷した豊永さんを案じた叔父が亡くなり、その後を追うように母方の祖母も亡くなりました。

 《医者も薬のない中で働き手が次々と倒れていきました。》

 2人を失い、祖父は三線を弾き、歌って寂しさを紛らわせました。祖父は三線の名手でした。

 《母方の祖父も熱があって体調も悪いだろうに、マラリアで先に亡くなった祖母と叔父を思い、よほど寂しかったのでしょう。戦争中も大切に持ち歩いた三線で古典を弾き始めました。

 皆をはげまし明るくするためか、そのうちに陽気な歌も歌い出しました。当時6歳だった私も思わず痛めていない左手を上げ、両足をトントンと踏みならし、お尻を振りながら曲に合わせて愉快に踊ったのです。

 驚いた祖父は「したいひゃー わーんまが」と言って、私に合わせ、片膝を立てて三線をかき鳴らし、喜びました。》

 孫の踊りに喜んだ祖父も晩になり高熱で倒れました。母ウシさんは必死に看病しましたが、明け方には息を引き取りました。

 《せっかく戦火をくぐり抜け助かった大切な命なのに、もう私たちには頼りになる人たちが皆いなくなりました。一人、また一人と肉親を失っていく時の母の気丈さ。私だったら耐えきれません。》