マラリア犠牲、悲しみ癒えず 豊永スミ子さん 収容所で(33)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
名護市嘉陽の一般廃棄物最終処分場に向かう道路。マラリアの犠牲者が埋葬された

 豊永スミ子さん(81)=嘉手納町=は久志村(現名護市)で叔父と祖母に続き、祖父をマラリアで失いました。祖父の三線に合わせて踊ったことを振り返り「この日は楽しかった。三線を聞きつけて、大勢の人が集まった。戦争の悲しみを忘れることができました」と語ります。

 悲しみの中で豊永さんもマラリアで倒れます。母ウシさんも動揺しました。

 《私もマラリアにかかり、高熱でうわごとを言ったので、母もびっくりして「誰かお願いさびら、この子を救(たす)けてください」と大声で泣いたそうです。

 するとひげそり用の太いカミソリを持った男の人が出てきて、私の体をうつぶせにして馬乗りになり、両腕を母に押さえさせ、私の背中や腰にカミソリをぽんぽんと立てて血を流させました。その時はあまりの高熱で痛みを感じませんでしたが、怖かったです。》

 高熱が出た時などに血を外に出して病状の改善を図る瀉血(しゃけつ)は古くから沖縄で行われています。豊永さんはその後、熱が下がり、生きながらえることができました。

 マラリアで次々と家族を失った悲しみは今も忘れることはありません。

 《いったい、このマラリアはあの時、どこからきたのでしょうか。終戦まで南部の激戦地を生き延びてきた私の家族は結局マラリアに殺されてしまいました。とても悲しく悔しいです。》