叔父や祖父母をマラリアで失い、自身もマラリアで苦しんだ豊永スミ子さん(81)=嘉手納町=や家族は久志村(現名護市)嘉陽から現在の西原町棚原に戻ります。「風が強くて、寒い時期だった」と豊永さんは語ります。
北部の収容地区から西原住民の帰村が始まったのは1946年4月以降です。生まれ育った翁長には戻れませんでした。米軍が駐留していたためです。
6月には学校教育が再開し、豊永さんは坂田初等学校に通います。翁長への居住が許されたのは47年6月です。沖縄戦から2年の時が流れていました。
沖縄戦の前、翁長で暮らしていた住民886人のうち556人が戦争の犠牲となりました。豊永さんは手記をこう締めくくります。
《私がこの戦争で学んだこと。人はどんな時でも自分ひとりの力ではなく、他人様の力によって生きてゆけることを今さらながら感じます。戦後生まれてきた人々、世の指導者の方々には、二度と戦争をすることなく、今の平和をずっと守ってほしいと願います。》
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本項1回目(8月19日付)で豊永さんの母ウシさんはアルゼンチン移住の経験があると紹介しましたが、移住したのはウシさんの家族の方でした。
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豊永さんの体験記は今回で終わります。次回から宮城定吉さんの手記を紹介します。