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露天のぜんざい店から婦人服店に 父母から継ぐ店、新天地市場閉鎖、コロナ禍乗り越え<まちぐゎーひと巡り那覇の市場界隈10>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
たくさんの婦人服が並ぶ下地力商店=那覇市牧志

 コロナ禍の日々に、ぼくはこれまで素通りしていた場所で足をとめるようになった。新天地市場本通りには、婦人服を扱う店が軒を連ねている。その軒先に色とりどりの布マスクが並んでいるのだ。

 「昔はマスクの取り扱いはなかったんですけど、コロナの影響で仕入れるようにしたんです」。そう話してくれたのは「下地力(しもじりき)商店」で店番をする與那城美和さん(55)だ。「最初は『とにかくマスクが欲しい』と買われる方が多かったですけど、最近は洋服に合わせられるように、色違いを買っていく方も多いですね。“苦労知らず”でいられるようにと、フクロウ柄が人気です。マスクにも売れ筋があるんです」

飲食から服へ

父母が創業し、続けてきた「下地力商店」で店頭に立つ與那城美和さん=那覇市牧志

 この場所で商いを始めたのは、美和さんの父・下地玄昭さんと母・ヨシ子さん。昭和9年、伊良部島に生まれた玄昭さんは、18歳の頃に那覇に渡り、最初はコーヒーやぜんざいを出す店をオープンする。「店」と言っても、当時はガーブ川がまだ暗渠(あんきょ)になっておらず、川べりの露店として営業していた。売れ行きはよかったものの、露店だと氷を冷やしておくのも一苦労で、玄昭さんは商売替えをする。そこで選んだのが婦人服だった。すぐ近くに新天地市場があった影響で、界隈にも衣料品を扱う店が数え切れないほど軒を連ねていたそうだ。

 「その頃は川沿いに商品を並べて、雨が降ると商品を持って避難して――ガーブ川はよく氾濫するから、大変だったみたいですよ。父は通り会の会長をやっていたから、ガーブ川を埋め立ててビルにしようと、皆でプラカードを掲げてデモ行進をやっていたらしいです」

 ガーブ川が暗渠になり、川の上にあった「水上店舗」が近代的なビルになったのは1964年のこと。当時の記事を読むと、水上店舗は百貨店のようにモダンな場所を目指し、扱う商品も相対売りではなく、値段を表記して販売すると報じられている。美和さんが生まれたのは、水上店舗が完成した翌年だ。

 「母は私を産んですぐ、おんぶしながら商売やってたみたいです。とにかく店が忙しくて、向かいのおばちゃんがおんぶしてくれたり、おっぱい飲ましてくれたり、そんな感じで育ったみたいですね。自分で歩けるようになると、店に行くと商売の邪魔になるから、裏の通りで鬼ごっこをしたり、お小遣いをもらって三越や山形屋の屋上に出かけて、コーヒーカップに乗って遊んだりしてましたね」

多忙な両親の姿

下地力商店がある新天地市場本通りの入り口=那覇市牧志

 店の仕事も、小さい頃から当たり前のように手伝ってきた。3歳になる頃には、店番をすることもあったという。

 「私が店にいると、お客さんに『お母さんはどこ行ったの?』と聞かれるんですね。まだ言葉もそんなにしゃべらない頃から、意味もわからずに『パーマ屋行ってる』って答えてましたね。『これ、ちょうだい』と言われると、値段もわからないまま売ってました」

 働く両親の姿は、とにかく忙しそうに見えた。当時は午後9時頃まで営業しており、両親の帰りを待ち、眠い目を擦りながら夕食を食べる日々だった。「自分はとても商売人になれない」と、店を継ぐことは考えなかった。父・玄昭さんが44歳の若さで亡くなってからは、母・ヨシ子さんがひとりで店を切り盛りしてきた。昔は従業員を雇うほど忙しかった店も、気づけば一人で事足りるようになっていた。

 新天地市場には、服を仕立てて販売する店が軒を連ねていた。量販店が増え、大量生産された服が手頃な値段で買えるようになると、次第に客足が減ってゆく。2011年9月30日をもって、新天地市場は長い歴史に幕を下ろした。

母の気持ち

新型コロナウイルスの感染拡大を受け、下地力商店でも販売しているマスク=那覇市牧志
マスクを購入した際に、しーぶん(おまけ)としてもらえた塩飴と手書きのメモ入りの袋

 「下地力商店」が扱う商品には、内地から仕入れた手頃な価格の洋服もあり、新天地市場の閉場後もどうにか営業を続けてきた。昭和7年生まれのヨシ子さんは、87歳を迎えても、休むことなく店に立っていた。そこにコロナ禍が降りかかり、店は臨時休業を余儀なくされた。気落ちする母の姿に接しているうちに、美和さんは自分が店番をすることに決めた。

 「母は日曜日も休むことがなかったですし、台風のときでも店を開けようとするぐらいで、お店が命の人なんです。臨時休業しているうちに、母の元気がなくなってきたので、『じゃあ、私が開けるだけ開けとくよー』と、店番することにしたんです」

 店番をするようになって、母の気持ちが理解できたような気がすると美和さんは言う。「魔法にかかったような感じで、『今日は日曜日だからお客さんが少ないかもな』と思っても、それでもお店を開けておかなきゃと思うようになったんです」と。

 ぼくが初めて「下地力商店」でマスクを買ったときに驚いたのは、商品と一緒に小さなビニール袋を手渡されたからだ。そこには塩飴(しおあめ)とポケットティッシュ、それに「またのご来店心よりお待ちしております 下地力商店」と、手書きのメモが入っていたからだ。シーブン(おまけ)に飴をもらったことは何度となくあるけれど、手書きのメモまでついてきたのは初めての経験だった。「下地力商店」には看板がないため、お客さんにおぼえてもらえるようにと、美和さんが娘に頼んで書いてもらっているのだという。

 感染が再び拡大する中で、人通りが途絶えた日もあった。隣で半世紀以上営業していた老舗の婦人服店も閉店し、現在は空き店舗となっている。それでも、どうにかこの状況を乗り越える日を待ちながら、今日も「下地力商店」は営業している。

(橋本倫史、ライター)

 はしもと・ともふみ 1982年広島県東広島市生まれ。2007年に「en-taxi」(扶桑社)に寄稿し、ライターとして活動を始める。同年にリトルマガジン「HB」を創刊。19年1月に「ドライブイン探訪」(筑摩書房)、同年5月に「市場界隈」(本の雑誌社)を出版した。


 那覇市の旧牧志公設市場界隈は、昔ながらの「まちぐゎー」の面影をとどめながら、市場の建て替えで生まれ変わりつつある。何よりも魅力は店主の人柄。ライターの橋本倫史さんが、沖縄の戦後史と重ねながら、新旧の店を訪ね歩く。

(2020年8月28日琉球新報掲載)