父、疎開反対「死ぬ時は一緒」 宮城定吉さん 収容所で(35)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
宮城定吉さん

 那覇市の宮城定吉さん(85)から「戦災孤児の戦後」と題した体験記をいただきました。宮城さんは南風原町で生まれ、沖縄戦で両親や2人の弟、祖母を失い、現在の糸満市新垣で米軍に捕らわれます。その後、妹と共にコザ孤児院へ送られます。
  ◇   ◇
 宮城さんは1935年1月、南風原村(現南風原町)新川で生まれました。1941年に首里城内にあった首里第一国民学校に入学します。「愛国心旺盛で軍人志望の児童だった」といいます。

 44年、4年生になった定吉さんは学童集団疎開の話を学校で聞かされ、母のウシさんと相談をしました。「跡継ぎを残すため、きょうだいで僕だけを疎開させようという話だった」と定吉さんは語ります。しかし、父の次郎さんは疎開に反対しました。「死ぬ時は家族一緒に沖縄で死のう」というのが次郎さんの考えでした。

 次郎さんはその頃、小禄飛行場の建設や南風原村兼城の壕掘り作業に駆り出されていました。サイパン、テニアンの日本軍が壊滅し、沖縄が戦場となる可能性が高まっていました。

 10・10空襲の日は首里にいました。「日本軍は首里の陣地から高射砲で反撃しました。空が煙で真っ黒になっていました」と定吉さんは話します。

 45年4月、定吉さんは5年生に進級するはずでした。学校から真新しい教科書が配られていました。しかし、米軍が本島西海岸に上陸し、授業どころではなくなります。次郎さんが新川に掘った壕で避難生活を送るようになります。