自らの地位を守るため、政権批判を封じ込めるのは普遍的な手法だ。古典的には検閲によって、為政者が気に食わない言動を徹底して取り締まり、世の中に流通しないようにしたものだ。現代では、硬軟を使い分けた強力な情報コントロールによって、よりスマートに同じ効果を生み出す工夫がなされるが、その術(すべ)にとりわけ長(た)けていたのが安倍政権であった。
熱狂度からすると小泉劇場のワンフレーズ・ポリテックスだが、盤石度は安倍政権に軍配があがろう。その要因はまさにいま、政権に批判的な識者や有名人の首相辞任を受けての発言に対し、失礼だとか礼節を欠くとの批判が集中している今日的現象から、読み解くことができそうだ(3日付本紙連載「最長政権の終焉」への寄稿も参照されたい)。
肩入れ
第1段階は、「親」メディア作りだ。日本の戦後は大きく、保守と革新にメディア地図が分かれていたが、政府の個別の政策については是々非々で対応する傾向が強かった。しかし現在は、すっかり親政権と反政権に色分けされるようになった。そしてメディア間においてすら、政府方針に反する論調を「国益毀損(きそん)」と断ずる状況になっている。当然、政権も親メディアに肩入れする。
安倍政権は森友・加計問題以降、政権の私物化という批判を浴びたが、それ以前からメディアの私物化ともいうべき、硬軟を使い分けた強力な情報コントロールが大きな特徴であった。政治とメディアの親密化は、両者の距離の問題にとどまらず、マスメディア、とりわけ新聞やテレビ全体に対する、一般市民からの強い不信感が一般化することになった。
次に起きるのは、社会の「分断」だ。リアルでもネットでも、政権に反対する勢力の言動を偏向、フェイク、さらには「非国民」として全否定するといったかたちでの、社会の二項対立が激化したのは、まさに第二次政権以降と重なる。為政者が率先して対立を煽(あお)ることで、分断や差別が正当化され、ヘイトスピーチの閾値(いきち)は下がり続けている。ネットに限らず一般生活圏においてすら、気軽に他人あるいは特定集団を誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)する状況が広がるとともに、事実に基づかないヘイト言説が広く定着し、「歴史の上書き」が進行する事態を生んでいる。
忖度社会の完成
首相が国会の場で度重ねて特定新聞を「捏造(ねつぞう)」と断定し、国会議員が「潰(つぶ)せ」ということに、社会が喝采を送るといった構図を生むことになった。あるいは首相自らが、こうした対立を生む攻撃的言動を言論の自由と称することで、ますます自由の意味が歪(ゆが)められることとなっている。自由な言論が必ずしも言論の自由の発揮ではないことに、為政者があえて目を瞑(つむ)ることは、社会全体の言論表現の自由の価値を大きく低下させた。
そうすると、次の段階が自然に訪れる。メディアと市民の距離はますます広がり、政権監視をする社会的役割は否定されることになるからだ。表現の自由の担い手であるジャーナリズム活動が弱体化することは、社会全体の自由の可動域を狭めることにも直結する。
同時並行して、社会全体に強い者、声の大きい者に「忖度(そんたく)」する動きも顕在化するようになる。具体的には、政府方針と異なる可能性があるものは、デモ行進であれ、市民集会であれ、さらには美術館や博物館の展示においてすら、やめておこうという力がどんどん大きくなるということだ。
ここまでくると、負のスパイラルは加速度的に回り始め、止めようにも止まらなくなる。この8年、表現規制の動きに市民やメディアが反対するほどに、反対する側の「怪しい感」が広がったり、政府批判に対して「偏向」批判が強まったりするということが起こった。
かつて為政者が自ら手を下したのと同じような効果が、市民社会の中で生まれる構図ができあがったということだ。分断や批判が、より政権を支える力として作用するという循環を生んできた。
表現規制立法
こうした状況を下支えしたのが、新たな法制度の導入や運用の変更だ。特定秘密保護法、「共謀罪」法、盗聴法改正、ドローン規制法と、恣意的(しいてき)な運用によって取材の自由を骨抜きにしかねない表現規制立法が次々と成立した。憲法改正手続法や国家安全保障関連法制にも、報道の自由を脅かす仕組みが含まれている。さらにいえば、マイナンバー法や個人情報保護法の改正によって、市民の権利はむしろ縮減されたという見方も可能だ。そもそも、直接的に言論の自由を規制する条文を含む法律が、これほど短期間に集中して制定されたのは戦後初めてである。
同時に、既存の法律を解釈変更して別の運用を可能にするのもこの政権の大きな特徴であった。とりわけ放送分野においては、放送界の自主規制機関であるBPO見解を誤りと断じ、法解釈を変更し閣議決定で固定化、さらには個別具体的な抗議や要請を繰り返し、放送局を雁字搦(がんじがら)めに縛っていった。ちなみにこれを主導したのが、総務大臣および官房長官としての菅義偉であることは記憶にとどめておく必要がある。
そしてもう一つの負の遺産として、公文書の改竄(かいざん)・隠蔽(いんぺい)・廃棄がある。21世紀は情報公開の時代になるはずだったが、モリ・カケ・サクラに代表される通り、政府の「見える化」は一気に空洞化した。さらにいえば、大事な会議ほど記録しない・させないという悪しき慣習が作り上げられ、国だけでなく地方自治体レベルにも確実に広まっている。
こうした知る権利の大前提が崩れることは、政策の検証を不可能とし、民主主義社会にとって不可欠の権力監視の力を削(そ)ぎ落とすことに直結する。残念ながら、政権交代後も政府自らがその姿勢を変える可能性は限りなくゼロの予感だ。そうであるならば、変化の鍵は、市民とジャーナリストが握っているということになる。
(山田健太、専修大学教授・言論法)