家族17人、集落に暮らす 宜保光明さん 故郷へ帰る(1)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 慶田城 七瀬
宜保光明さん

  豊見城市の宜保光明さん(76)から体験記が届きました。本島南部の戦場をさまよった宜保さん家族は現在の糸満市名城で米軍に捕らわれ、収容所を転々としました。故郷に戻り、荒れ果てた畑を耕しながら、戦後の暮らしを始めます。

     ◇

 宜保さんは1944年2月、豊見城村(現豊見城市)座安で生まれました。父の来蔵さん、母ヨシさんの長男です。
 自宅は座安集落のほぼ中央にありました。祖母のカメさんや親類ら17人が暮らす大家族でした。来蔵さんは家畜商を営んでいました。45年当時、幼かった光明さんには地上戦の記憶はありません。戦後、ヨシさんが戦争体験を語ってくれました。
 光明さんはヨシさんに「家族皆を守るためにどんな苦労があったか」と尋ねたことがありました。ヨシさんは「本能から無意識に生きた。後のことは一言では言えない」と返答したといいます。
 沖縄戦で亡くなった豊見城村民は約3600人です。当時の村民約9千人の4割が犠牲となりました。体験記の冒頭で光明さんは記します。
 《この沖縄の中南部の人口の多い土地に日本軍がトンネルなどを構築して穴ごもり作戦を決行する。しかも住民の避難所を造らず置き去りにして戦った。むごい地上戦で豊見城は住民の半分近くが犠牲になっています。この事実は後世に語り継がなければならないでしょう。》

     ◇

 収容地区から故郷に戻った後の体験を紹介します。