人手、道具なく壕掘り 宜保光明さん 故郷へ帰る(3)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
座安住民の避難壕が掘られたウィードゥギ

 日本軍が陣地壕の構築を進めている豊見城村(現豊見城市)座安の若知花森(わかちばなもー)の裏手にある丘陵ウィードゥギ(イールギ)で住民の避難壕が築かれました。宜保光明さん(76)=豊見城市=の家族もこの壕に隠れました。

 座安住民の避難壕造りが始まったのは44年の10・10空襲以降のことです。

 《米軍の10・10空襲で那覇方面が無差別に攻撃されているのを豊見城西部から確認して、みんなびっくり。それから慌てて防空壕を掘り始めたようです。

 しかし、防空壕を掘るのに必要なつるはしなど全ての道具は日本軍に供出しているので手元にありません。壕を掘る大人は男女とも軍に動員されています。》

 宜保さんの家族も人手がなく、道具もない中で壕掘りに苦労します。

 《我が家では11歳の2人のおじさんが那覇港にある焼け残った船からエーク(櫂(かい))を拾ってきて、木槌を使って約5カ月をかけて毎日壕を掘りました。そのうちに戦況が激しくなり、家族全員では使用できない小さな防空壕になったようです。》

 45年4月1日の米軍上陸時、宜保さん家族はウィードゥギの壕に隠れます。母ヨシさん、祖母、叔父、2人の叔母を合わせて計6人です。父の来蔵さんは防衛隊員として戦場に動員され、激戦地となった浦添村(現浦添市)前田で弾薬を運ぶ作業に従事しました。