米軍標的地、山川橋渡る 宜保光明さん 故郷へ帰る(4)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
南風原町の山川橋周辺

 豊見城村(現豊見城市)座安の丘陵地ウィードゥギの壕に隠れていた宜保光明さん(76)=豊見城市=ら家族6人は米軍の猛攻が迫り、島尻へと逃れます。住民全員が壕を離れたのは1945年6月初旬から中旬にかけてのことです。

 《壕は米軍の砲撃に弱くこの地で数戸は犠牲になったようです。民間壕群からの避難は日本軍の指示も出たようですが、伝達は皆に伝わらなく、一部の住民は残りました。米軍が海軍壕を越えて宜保で火炎放射器で日本軍を攻めているのを見て、一人残らず南部方面に逃げたといいます。》

 宜保さんらは兼城村(現糸満市)阿波根のガマに入ろうとしましたが断られ、いったん座安に戻った後、同じ豊見城村の渡嘉敷、高嶺、饒波を経て南風原村(現南風原町)山川に向かいます。目的地は大里でした。

 《南風原では多くの死体がころがり、しかも蛆(うじ)も湧き、それを避けながら行くのです。》

 南風原の山川橋付近は米軍が砲撃の標的とした地です。大勢の住民や兵士が命を落としました。戦後、母ヨシさんは「山川橋は爆弾が落ちて大変だった。攻撃が一番激しいところだった。何であそこを渡ったのかねえ」と宜保さんに語っていたといいます。

 6人は大里にたどり着いた後も米軍の攻撃に遭い、新たな避難先を求めます。