名城で米兵に捕らわれる 宜保光明さん 故郷へ帰る(5)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
糸満市名城の海岸

 家族6人で南部の激戦地をさまよった宜保光明さん(76)=豊見城市=は大里でも米軍の猛攻にさらされ、玉城(現南城市玉城)へ向かいます。食糧も不足していました。

 《大里に着いても米軍の激しい攻撃が続き、火炎放射器も使用していました。身を守る所を求めて玉城に行くことにしたようです。食べ物はなくなり、私の腹は膨れ、手足は細くなり、これから育っていくか心配したといいます。

 玉城に行くにもたくさんの人がいて、身を寄せる所も見つかりません。家族は私を心配し、カエルやネズミなど食べられるものを求めました。》

 その後、具志頭村(現八重瀬町)安里を経て摩文仁村(現糸満市)米須を目指します。

 《今度は米須に向かったようです。だが、米軍の攻撃はますます激しくなり、安里に入ってからは浜沿いに進み、岩陰に隠れながらゆっくり行くことになりました。満潮時には陸地に上がるのを繰り返しました。》

 6月下旬、家族は大度海岸を経て真壁村(現糸満市)名城に向かいます。

 《大度海岸の岩陰で私は気を失いました。私は死ぬものと家族は思ったようです。大度海岸を離れ、名城の浜辺に行くと、定置網の形のように米兵は立っていました。》

 宜保さんらは定置網にかかる魚のように米兵に捕らわれます。