家族と合流、読谷大木へ 宜保光明さん 故郷へ帰る(6)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 慶田城 七瀬
「故郷へ帰る 読者と刻む沖縄戦」/ 野戦病院が置かれた諸見小学校の周辺

 真壁村(現糸満市)名城の海岸で米軍に捕らわれた宜保光明さん(76)=豊見城市=は上陸用舟艇で金武に運ばれます。

 母ヨシさん、祖母、叔父、2人の叔母の5人は金武の収容所に入ります。名城の海岸で気を失った光明さんは越来村(現沖縄市)胡屋の米軍野戦病院で治療を受けます。病院の場所は現在の胡屋十字路、諸見小学校の付近です。

 《私は米軍の軍医によってすぐに応急措置によって命を助けられたようです。ここから金武に上陸して、民間人、日本軍兵士など振り分けました。私は胡屋の病院に、残りは金武の収容所に入ることになりました。》

 病院で回復した光明さんは収容所でヨシさんらと合流します。その後、読谷村大木の民家で暮らすようになります。宜保さん家族を受け入れたのは「カマドさん」という人でした。

 《収容所を転々と移動して最後は大木で過ごしていたようです。大木ではカマドさんには非常にお世話になったようで、家族はよく話をしていました。》
 防衛隊に召集され、浦添で弾薬運びをしていた父の来蔵さんは米軍の砲撃を受け負傷しました。後に家族と合流します。

 各地の収容地区にいた座安住民が帰郷したのは1945年末から46年初めのことです。4月までにほとんどの住民が戻りました。宜保さん家族も米軍トラックで座安に向かいます。