水路機能失い生活困窮 宜保光明さん 故郷へ帰る(7)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
現在の豊見城市座安、渡橋名

 宜保光明さん(76)=豊見城市=は家族と共に読谷村大木から米軍のトラックに乗って故郷の豊見城村座安に戻ります。集落に通じる道は通行できなくなっており、渡橋名回りで座安に入ります。

 集落は荒れ果てていました。地上戦の最中、米軍が攻撃拠点を置いていました。

 《米須方面を攻撃する大砲を3門設置し、ここから連日攻撃したようです。集落の真ん中を南北に、渡橋名から伊良波境界付近まで道路を建設していました。畑や住宅地、門中墓の敷地もブルドーザーなどで敷きならしていました。

 この道路の南側には座安小学校があります。道路の北側には収容所を設置してあります。この地区は南部を攻撃するのに使用するのと、米軍に投降してくる人たちの一時的な中継地にしたようです。》

 日本軍が建設した与根飛行場も集落住民を悩ませました。

 《日本軍が土地をかさ上げして飛行場を構築したため、座安から伊良波の水路は機能がなくなってしまいました。座安地区は水はけが悪く、生活の糧が失われたのです。》

 日米両軍の戦闘で座安の田畑は荒廃していました。収容地区から戻った住民は生活の再建に励みます。

 《住民はつるはし、スコップ、鍬(くわ)などを使い、自らの土地を復元しました。》