戦後も命失われる 宜保光明さん 故郷へ帰る(8)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
現在の豊見城座安。野菜畑、ビニールハウスが広がる

 各地の収容地区などから戻った豊見城村(現豊見城市)座安の住民は、集落の復興にいそしみます。宜保光明さん(76)=豊見城市=の一家も母ヨシさんが中心となり懸命に働きます。

 《座安地区の道路は米軍によってつぶされていました。住宅を建て、田や畑の復元に努めました。地上戦を決行した国は責任を負うこともなく、住民は汗を流してマイナスからスタートしなければなりません。

 私たちに配られたのはテント一張りです。配給米は打ち切られ、食べ物は自ら作らなければなりません。栄養不足で体力を失い、病に倒れる人も多かったです。戦争を生き抜いて命のありがたさを皆で祝ったのに、倒れたのです。戦後、私の妹もはしかで命を失いました。》

 光明さんも食糧確保に懸命でした。

 《収容所では米軍が支給する食べ物で暮らしましたが、座安には食べ物や家畜、農具を日本軍にあげていたので何も残っていません。ここから主食となる芋を植えました。

 私は村の兄貴たちのグループに加わり、瀬長や翁長の海岸に出掛けました。海で捕るのは魚、二枚貝、ガサミなどです。大事な食べ物です。私たちは海に助けられました。》

 仲間の1人は溺れて亡くなりました。海には不発弾があり、危険でした。敗戦後も命の危機と向き合っていました。