空襲で家焼失、久志へ 当真嗣寿雄さん 故郷へ帰る(10)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
現在の那覇市久茂地1丁目付近

 那覇市の当真嗣寿雄さん(77)からお便りが届きました。沖縄戦の間、疎開先の久志村で暮らし、戦後、那覇市に引き揚げてきました。隣近所の人々と助け合いながら規格住宅で生活しました。

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 当真さんは1943年9月、那覇市の生まれです。両親と祖父母、2人の姉、兄と共に久茂地川の下流、現在の那覇市久茂地にある琉球銀行本店の裏手辺りで暮らしていました。

 沖縄戦の記憶はありません。戦後、家族から当時の様子を聞かされました。

 当真さんの姉の話によると、44年10月の10・10空襲で家は焼けてしまいました。

 久茂地、泉崎、旭橋一帯は大きな被害を受けています。家族は一時、真和志村(現那覇市)松川の松川小学校の近くに避難しました。松川一帯は被害に遭わずに済みました。

 その後、家族は久志村(現名護市)の久志集落に疎開します。「やんばるに疎開する時、体の小さな祖母は羽釜を頭にかぶっていたといいます。浦添、宜野湾を歩いて疎開したのではないでしょうか」と当真さんは語ります。

 久志に疎開した時期ははっきりしません。当真さん家族はそのまま久志で敗戦を迎えました。「名護市史本編3 名護・やんばるの沖縄戦」によると久志に進攻した米軍は集落を避難民の収容地区と位置付けます。