10・10空襲に遭い、久志村(現名護市)の久志集落に避難した当真嗣寿雄さん(77)=那覇市=の家族は、敗戦後も久志での生活を続けます。父の嗣成さんは久志で巡査をしていました。
久志では避難小屋のような家で暮らしていたといいます。「壁は隙間だらけでした。冷たい風が入ってきて、外で松の葉がそよぐ音が聞こえました」と嗣寿雄さんは語ります。
集落に面した海で泳いだことも記憶に残っています。「沖合に米軍の軍艦が数珠つなぎになっていたのを覚えています」と振り返ります。
姉2人は学校に通うようになります。嗣寿雄さんと兄の2人は就学前でした。姉の運動会を見学したこともありました。
嗣寿雄さんは2年ほど久志で暮らし、その後、那覇に引き揚げました。生まれ故郷の久茂地川下流周辺は米軍が占拠していたため、家族は楚辺で暮らすことになります。
《疎開先の久志村から那覇へ引き揚げてきたのは私が3、4歳の頃である。城岳小学校近くへ移ってきた。周囲はブルドーザーで引きならし平坦な土地にテント張りの規格住宅が並んでいた。緑がなく荒涼としていた。》
規格住宅とは米国の住宅建材2×4(ツーバイフォー)で建てた広さ6坪ほどの簡易住宅です。嗣寿雄さんの家族もこの規格住宅で暮らしました。