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日本学術会議の任命拒否 自由の剥奪が完成形へ 思想良心、学問、表現が空洞化<メディア時評>


この記事を書いた人 アバター画像 琉球新報社

 まさに、土足で奥座敷までズケズケと入り込んできた、と言いえるのが日本学術会議の新会員任命拒否だ。9月14日の新政権後の10月1日人事で、さっそく大きな波紋を呼ぶことになった。

小中高校の不自由

 裁量的任命拒否は、学問の自由への侵害であるとか、それとの関係で違憲であるという言い方もされているが、ここではさらに長期スパンで伏在する問題を考えてみたい。それは、教育・研究現場からの思想良心の自由、表現の自由の剥奪(はくだつ)状況が、徹底したかたちで完成形を迎えつつあるということだ。今回の任命拒否は「突然」起きたことではなく、時間をかけて進めてきた現場統制の過程にあるもの、ということに大きなポイントがある。

 すでに、小中高校の教育分野において、1990年代以降、周到な準備と実行をもって、個々の教師の自由を奪い、政府主導の教育内容の徹底が実現している。一つは教科書の政府方針への統一である。そもそも制度上、日本の場合は教師が自分の教室で好きな教科書を使用できない仕組みとなっている。

 それが、さらにこの間の採択の広域化と決定権限を持つ教育委員会メンバーの入れ替えによって、政府方針に近いとされる教科書の使用が大幅に進んだ(各学校がどの教科書を使うかは、地区ごとの教育委員会が決定する仕組みが採択制度だ)。

 しかも、教科書内容は文科省の意向に従うことが義務付けられており(教科書検定制度)、政府見解を扱うことがルール化される結果、慰安婦や南京虐殺、沖縄戦「集団自決」(強制集団死)の記述が大幅に変わってしまったことは記憶に新しいところだ。

 そしてもし、指導要領と異なる授業や教科書記述にない話をすると、すぐに話が伝わり、保守系議員が議会で問題化し、それを受けて中央政府が動くという構図が定着している。教師は、間接的に国家に監視されているのである。

 そのうえにもう一つ、道徳の教科化による愛国心教育と、国家観の統一がある。君が代・日の丸を巡る良心の自由の否定も同じ文脈だ。国会では繰り返し強制性を否定してきたものの、自治体レベルでの指示に従わない者への処分が一般化している。一部では裁判で行き過ぎが認められたものの、大筋において教育の場の公式行事において、国旗を掲揚し国歌は起立して斉唱する以外の選択肢はなくなった。いまや社会全体にその空気は広がり、たとえばプロ野球で試合前に国歌斉唱を行うことが儀礼化しているが、その際に立たないことは勇気がいる事態を生んでいる。

大学の自治への侵食

 これに比べれば大学はましではあろう。個々の教員の研究の自由も教授の自由(授業で何をどのように教えるかの自由)も、まだ見た目として確保されているからだ。しかしその自由も実はここ数年で大きく侵食されている。それが実利優先の教育志向であり、大学補助金政策である。いわば、国家政策に沿った学生を作ることを求めることで、大学教育を縛ってきたからだ。

 善し悪しは別として、今般の大学経営は政府補助金なしでは成り立たない状況にある。そこに競争原理を導入し、政府の方針に合った教育内容の大学に傾斜配分されることになった。まさに財源を通しての政府の大学支配が進む形になっているということだ。

 あるいは、学内の規律重視は、集会の自由も格段に奪っている。今回の任命拒否に異を唱える教員や大学においてすら、その学内において政治的主張をもった集会を開くことは困難だ。大学自体が、学内の平穏を維持するという理屈で、自由な言論表現活動の芽を厳しく摘(つ)んできた結果でもある。

 各自治体で進行している政治的中立を絶対視したのと同じ理屈で、「静かな大学」が実現していることになる。大学もすでに、さまざまな搦(から)め手で、多くの自由を手放してきた状況があり、それは前述の小中高校の教育現場の自由の縮減と軌を一にしているということだ。

 思い返せば昨年は、文化・芸術分野に対する政府の直接介入が大きな問題として浮上した。文化庁補助金カットの問題はその後、コロナ禍での芸術活動全体の危機的な状況を迎え雲散霧消してしまった感があるが、その方針は結局変わることなく、定着の道を歩んでいる。そして、博物館・美術館での忖度(そんたく)状況や、各自治体の公民館他各種施設等の貸し出しも、相変わらず政治的中立性が求められている。結果的に、恣意的(しいてき)な権限行使で作品の展示、デモや集会等の市民の表現活動の制限や、後援取り下げが続いているということになる。

成功体験に裏打ち

 さらにいえば、こうした教育現場における「改革の成功」のほかにも、解釈変更は怖くない、という経験も積んでいる。近いところで、集団的自衛権もそうだし、検察庁法・国家公務員法も当てはまる。表現分野で言えば、放送法の解釈変更もいとも簡単に成し遂げた。いまだに当該研究分野の研究者の大多数は政府解釈は間違いといっているが、政府は全く意に介さないどころか、「新」解釈に基づく政治家の振る舞いを、放送現場は抵抗なく受け入れる事態が定着してしまっている。

 内閣人事局による官僚統制が成功したことは言うまでもない。これが前政権以来の力の源泉として機能しているし、むしろ今後、その完成度は高まっていくことになろう。そしてこうした変化は、強いリーダーシップとして世間の高い支持を受けている。まさに過去の解釈や前例を踏襲する守旧派に向かって闘う「改革派」だからだ。

 これに力を貸しているのが、世論の対立状況だろう。いわば国論を二分するような課題については、政権は親政権のメディアを最大限活用し、強行突破を繰り返してきているからだ。その結果、内閣支持率にも大きな影響を与えることなく、課題を乗り切っている。秘密保護法も国家安全保障法も、共謀罪も、みな同じ構図である。いわば、国論(世論)が割れた瞬間、政権は「勝った」という状況がある。

 こっそり勝手に変更という悪習は、きちんと絶たせる必要はある。このような首相による恣意的な人事が当たり前に行われれば、いともたやすく憲法で保障されている、学問の自由や言論表現の自由が空洞化することは間違いない。社会全体をみるほどに、事態はより深刻化していることがわかるといった厳しい状況のなかで、10年先を見通して筋を通した議論を社会の中で構築していくのが、まさに研究者の役割であり、そのサポートをジャーナリズムにも期待したい。

(山田健太、専修大学教授・言論法)