モダンな校舎にアイスケーキ・・・焼かれて消えた那覇の街と青春 10・10空襲から76年


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10・10空襲で焼失した県立第二高女のあった場所で当時のことを話す武村豊さん=5日、那覇市松山

 旧那覇市を中心に米軍の無差別攻撃を受けた1944年の10・10空襲から、10日で76年となった。米軍艦載機や爆撃機は、港湾や飛行場だけでなく民間居住地域も焼き払った。大好きな学びやと自宅を失った女学生や、遠く離れた疎開先で故郷の家族を思い泣き崩れる子どもたち。10・10空襲は沖縄戦の前哨戦ともされ、住民にとって戦争を現実に感じさせる出来事となった。それぞれの場所から見た10・10空襲を語ってもらった。

 まだ新しい、モダンな白い2階建ての校舎、お使いの帰りにこっそり買った大門前(ウフジョーメー)通りのアイスケーキ。76年前、県立第二高等女学校(第二高女)の4年生だった武村豊さん(91)は、当時の西新町の自宅から久米町にある学校までの通学路が好きだった。戦時色が濃くなる中、白く美しい校舎や那覇市内一の立派な繁華街は、心のよりどころだった。1944年10月10日の空襲で、全てが突然消えてしまった。

 入学した頃の第二高女は、外国の歌や文学を授業に取り入れ、ピアノやオルガンも習った。中庭には四季折々の花が咲いていた。帰り道は大門前通りを通り、デパート山形屋や、小豆のアイスケーキを売る「丹下」という店など、寄り道をしていた。当時の街並みは、今でもそらで言える。

 4年生になると、竹やりの訓練だけでなく、がじゃんびらの高台(現・那覇市小禄)で高射砲陣地壕を造る作業も始まった。44年10月10日の午前7時ごろ、学校に行くため迎えに行った友人の自宅の前で「ウー」という普段聞こえないサイレン音を聞いた。「演習にしては、何かおかしいな。あっ、本物の空襲だ」。友人の自宅にある手作りの壕に飛び込んだ。砲撃だけでなく、機銃掃射の音も聞こえた。地響きが止まらず、壕の戸もがたがた震えていた。

 正午前にはいったん砲撃がやみ、自宅が気になって戻った。被害はなかったが、母のカメさんと姉の文さんは既に避難していなかった。「怖くなってお友達と一緒にいようと思った」と、そのまま友人宅近くにあった辻原墓地の墓の中に避難した。数時間して爆撃がやんだのか、静かになり外に出ると、空は明るかった。炎が燃えていた。あちこちから「○○ちゃん、○○ちゃーん」という声が聞こえ、いろいろな人が誰かの名前を呼んでいた。

 昼間に一度戻った自宅へは、もう近寄れなくなっていた。何もかも焼けているのが分かった。思い出の写真もすべて失った。「玄関を出る時に、砂糖壺を見て出たんだけどね。口にしておけばよかったね」

10・10空襲で被害を受けた旧那覇市=1944年10月10日(県公文書館所蔵)

 消防隊員に北部に疎開するように言われ、友人の親族がいる宜野座村まで歩いて向かった。途中、現・宜野湾市の普天間辺りから那覇を見ると、まだ空は赤かった。燃え続ける那覇と対象的にきれいな松並木道に圧倒されたのを覚えている。普天間の集落の人たちがおにぎりとお茶を配ってくれ、それを食べた。

 親戚の家に身を寄せてしばらくたった頃、新聞で「第二高女に告ぐ」という記事を読んだ。焼失した第二高女近くにあった知事公舎で救急法を学び、45年3月には、白梅学徒隊として八重瀬岳の第24師団第一野戦病院壕に配属された。あの楽しかった学びやや、友達と過ごした時間は二度と戻ってこなかった。

(阪口彩子)

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