みんな貧乏していた 当真嗣寿雄さん 故郷へ帰る(13)<読者と刻む沖縄戦>


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 当真嗣寿雄さん(77)=那覇市=が暮らしていた真和志村(現那覇市)楚辺に1947年から50年までの3年間、那覇港の業務を円滑に進めるための特別な行政自治体「みなと村」が置かれます。人口は1万人余。区域は楚辺のほか現在の奥武山、壺川などです。

 居住者は港湾作業員でした。当真さんの父、嗣成さんも那覇港で働いていました。

 軍作業の中で米軍の物資をかすめ取る「戦果」が横行した時代ですが、嗣成さんはそういうことはしませんでした。「父は実直な人でした」と嗣寿雄さんは語ります。

 当時の主食はイモ。食生活は厳しかったといいます。

 「ウムニーをよく食べたことが記憶に残っています。普通のウムニーではありません。家族は多いのでメリケン粉を混ぜて、量を増やして食べるんです。おいしくはありません。腹を満たせばいい、というものでした」

 生卵の思い出があります。

 「1週間に2回くらい、父のお汁に卵が1個入るんです。働き手の父に食べてもらおう、父が倒れたら一家が全滅するというんです。貧乏人の知恵です。父は遠慮しながら食べるんですね。子どもに分けようとするんですが、祖母は目を光らせているんです」

 厳しい生活を送っていたのは当真家だけではありません。「みんな貧乏していました」と嗣寿雄さんは話します。