規格住宅が建ち並ぶ港湾作業員の居住地みなと村で、当真嗣寿雄さん(77)=那覇市=の家族は周囲の住民と知恵を出し合いながら暮らします。
《移転当時は水道の設備はなく共同井戸が1カ所あった。水を枯らさないように5、6世帯でグループを組み、曜日を決めて水くみをした。もやしを生業にしている家は毎日水を使うことを許されていた。》
住宅の間に塀や囲いはありません。各戸の往来は自由で、住民同士は親密な関係を築きました。当真さんも多くの友がいました。
生まれ故郷だった地に戻ることはありませんでした。米軍が長く占拠したのです。結局、楚辺の規格住宅に7年ほど暮らしました。その後、立ち退きに合い壺屋方面に引っ越します。
貧しかった楚辺での暮らしの中で最も記憶に残っているのは住民同士の助け合いです。台風の時、隣の家族が当真家10人の避難を受け入れてくれたように、沖縄戦を生き延びた者が支え合い、戦後を歩みました。
《住民は、出身地の異なる各地域からの寄せ集めであった。新しい近所付き合いであったが、秩序正しく、助け合いながら生活していた。》
そのことを一番伝えたいと当真さんは語ります。
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当真嗣寿雄さんの体験記は今回で終わります。次回から中島政彦さんの体験記です。