台湾で生まれ、戦争渦中に 中島政彦さん 故郷へ帰る(15)<読者と刻む沖縄戦>


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中島政彦さん

 那覇市の中島政彦さん(89)から体験記が届きました。中島さんは生まれ育った台湾で1945年8月の敗戦を迎え、翌年12月に父の生まれ故郷、首里に引き揚げました。当時の姓は島袋です。沖縄に引き揚げた後、中島に改姓しました。

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 中島さんは1931年2月、台湾中部内陸部の台中州能高郡埔里(現在の南投県埔里)で生まれました。父の嘉民さん(戦後、謙介に改名)、母ツルさんの次男です。きょうだいに6歳上の姉政子、4歳上の兄政雄さんがいました。

 政彦さんらが暮らした地域は「電気がまだ引かれておらず、ランプ生活の日々だった」と振り返ります。

 嘉民さんは1889年、現在の那覇市首里大中町で生まれました。津堅や中城、宮古の小学校で教師を務めた後、台湾・台中州に渡り、台湾の子どもたちが通う公学校の教師となります。公学校では日本語教育が施されます。その後、教職を離れ、地域の庄長となりました。

 日本は統治した台湾で生まれた子を「湾生」(わんせい)と呼んでいます。その一人である政彦さんは「昭和6年、台中州能高郡で生まれた私の少年期は戦争に次ぐ戦争の渦中にあった」と記します。

 生まれる前年の30年10月、強制労働と差別に反発した能高郡の台湾先住民による反日暴動「霧社事件」が起きています。

 31年9月には、関東軍が満州(中国東北部)で南満州鉄道の線路を爆破する「柳条湖事件」が起き、それを契機に日中両軍の武力衝突が広がっていきます。