遊びの中に「兵隊ごっこ」 中島政彦さん 故郷へ帰る(16)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 慶田城 七瀬
台湾で暮らしていたころの中島さん一家。左から3人目が政彦さん

 相次ぐ戦争の渦中、台中州で生まれ育った中島政彦さん(89)=那覇市=は地元の小学校に通います。軍国主義教育が徹底された時代でした。

 《昭和の初期は大東亜共栄圏を旗頭にした軍国主義が見え始めた頃であり、無邪気な子どもたちの心の中にも「国のためならいつでも死ねる精神」が培われつつあった。》

 国語の授業では「サイタ サイタ サクラガ サイタ」で始まる教科書で学んだ世代です。兵士の絵と共に「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」という文字を素直に受け入れました。子どもたちの遊びの中に兵隊ごっこやチャンバラごっこが入ってきました。

 中島さんの周囲には日本移住してきた子どもたちが大勢いました。台湾の子に比べ優位な立場にありました。

 《戦前の台湾では国策により守られ、全てに優遇されており、優雅な生活を営んでいた。「日本人は強い民族だ。いつかは世界を制覇するのだ」と誇らしく思っていた。

 天皇陛下は神の子であり、畏れ多いことである。われわれは天皇陛下のためであれば火の中、水の中をいとわず、お国のためならいつ死んでも悔いはないと心に誓っていた。》

 1941年12月、太平洋戦争が起きます。中島さんは「いかにして『忠実な兵士』になるか」を考える少年になっていました。