「収容所の歌」読者つなぐ 読者投稿を紹介し戦争体験者から返答


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「この歌では」と投稿した宜保榮治郎さん=那覇市
歌の手がかりを求めて本紙に投稿した池辺賢児さん=名護市の琉球新報北部支社

 「この歌知りませんか」。今年9月、読者からの投稿を載せる「声」の欄に、こんな見出しの投稿文が掲載された。投稿したのはケアマネジャーの池辺賢児さん(42)=宜野座村。掲載後、本紙には電話で情報提供があった。「この歌では」と沖縄戦を体験した男性からの投稿文も寄せられるなど反響が広がり、紙面を介して戦争を知らない世代と戦争体験者がつながった。

 池辺さんは以前、本島北部の高齢者施設で歌会に参加した。そこで、90歳近い女性が歌った歌が気になった。歌詞を聴くとどうやら沖縄戦後、捕虜としてハワイに連れて行かれたウチナーンチュを歌っているようだった。女性に聞いても曲名は分からない。手掛かりを求めて声の欄に歌詞も含めて投稿した。

 「時は昭和20年、沖縄上陸したゆえにアメリカ兵に捕虜とられ、甲板暮らしで苦労する。甲板生活、嫌なれど、もはやMPに着替えられ、朝と晩との握り飯、食えや沖縄、懐かしや」

 投稿文が載ると、読んだ人たちから情報が寄せられた。

 「この歌では」と情報を寄せたのは現在の名護市の一部、屋部村出身の宜保榮治郎さん(86)=那覇市=だ。1945年4月、沖縄本島に上陸した米軍は間もなく屋部に迫った。宜保さんと家族は米軍に捕らわれ、田井等の収容所に運ばれた。宜保さんが歌を聞いたのは戦後、屋部に戻ってからだ。「収容所では戦意高揚の歌を歌っていた。戻った頃にはやった、満足に食べられた平和な頃を懐かしむ歌では」と思いを巡らせた。

 歌詞にあった「甲板」は、実際は収容所を意味する「カンパン」のことだった。歌われていたのも替え歌で、原曲は一戸竜也の「東京の流れ星」という曲だと分かった。池辺さんがインターネットで検索すると曲が流れ出した。「あの曲と同じだ」と感動した。

 新聞投稿歴10年の池辺さんは、今回の件をきっかけに名護市にあった収容所に関心を持ち、収容所が紹介されるドキュメンタリー映画を見た。当時の写真を目にし「沖縄戦直後の人々の喪失感が伝わった」と心を揺さぶられた。

 戦後75年。戦争体験者が減り、沖縄戦の記憶の継承が課題となる今、紙面を通じた人と人との結び付きが、沖縄戦を知るきっかけにつながった。
 (仲村良太、塚崎昇平)