玉音放送、涙流し聴く 中島政彦さん 故郷へ帰る(18)<読者と刻む沖縄戦>


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 台中州の台中第二中学校に通っていた中島政彦さん(89)=那覇市=は「天皇陛下の赤子」として国に尽くすことを決意していました。中学2年の時、陸軍少年飛行兵学校の入校に応募しました。試験には合格しましたが、母ツルさんは入学に反対しました。

 「今応募しなくても陸士や海兵の士官学校があるので、それまでは待つように」というのがツルさんの言い分でした。政彦さんは「母は非国民だ」と反発し、嘆いたといいます。

 ツルさんの判断で政彦さんは命拾いをしました。兵学校に入学した先輩の中には、乗っていた潜水艦が沈められ命を落とした人もいました。入隊を止めたツルさんの勇気に政彦さんは感謝しています。

 戦況は悪化し、1945年1月以降、台湾も米軍の空襲にさらされます。4月、米軍が沖縄本島に上陸、台中市も空襲を受けます。政彦さんは7月、学徒兵として動員され、弾薬運びや陣地構築に従事します。

 45年8月15日、敗戦の日を迎えます。政彦さんら学徒兵は集められ、ポツダム宣言の受諾を伝える天皇のラジオ放送を聴きます。

 「戦争には絶対に勝つと思っていました。玉音放送は途切れ途切れでしたが日本が負けたことは分かりました。涙を流しながら聴きましたよ」

 台湾を支配していた日本は敗戦国となりました。日本と台湾の立場は逆転します。