日本人への制裁に恐怖 中島政彦さん 故郷へ帰る(19)<読者と刻む沖縄戦>


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 敗戦で日本の台湾支配は終焉(しゅうえん)を迎えました。学徒兵として敗戦を迎えた中島政彦さん(89)=那覇市=は行く末を案じていました。

 《街中に爆竹が鳴り響き、歓喜に満ちあふれていた。敗戦国の日本はいかなる制裁を受けるかと不安を募らせていた。》

 中国国民党の蒋介石は演説で「怨(うら)みに報いるに徳を似てす」という老子の一節を引き、日本人に対する人道的な対応を求めたことが知られています。それでも日本統治の圧政に反発してきた台湾住民と日本人の衝突が起きました。

 中島さんは9月、台中第二中学に復学します。

 《中学3年在学中の私たちは、憲兵の監視の下に授業を再開したが、北京語・台湾語の履修が義務づけられ、三民主義の国歌を何度となく斉唱した。》

 三民主義は孫文が唱えた中国国民党の指導原理である民族、民生、民権を指します。国歌の歌詞も三民主義の貫徹を訴えています。

 中島さんも身の危険を感じることがありました。

 《ある時、台湾人の学友から「今日は日本人狩りと称し、台湾の中学生が殴りに来るから避難しなさい」との忠告を受けた。私は学寮の天井裏に身を潜めること2日間、事の収まるのを待って北斗郡田尾の庄長を務める父親に助けを求めた。》

 その後、「琉僑」と記したバッジを付けた空手の使い手という沖縄県人に助けられました。