沖縄出身者 帰還後回し 中島政彦さん 故郷へ帰る(20)<読者と刻む沖縄戦>


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沖縄出身者が過ごした台湾総督府(撮影は戦前)

 1945年12月、日本人の送還業務に携わる「台湾省日僑管理委員会」が発足し、翌年2月から台湾にいる日本人の帰国が始まりました。台中で暮らしていた中島政彦さん(89)=那覇市=ら沖縄出身者や奄美出身者は「琉僑」と呼ばれ、帰郷は後回しになります。

 沖縄出身者の動向を記録する「沖縄籍民調査書」によると46年6月ごろの時点で1万132人の沖縄出身者が台湾に残っています。

 《家財道具は全て親しい台湾人に譲り渡し、官舎を引き払い市街の狭い住宅で暮らしていた。隣近所に住む本土の人々は全て帰還し、不安で寂しい毎日であった。この街に「沖縄舞踊団の高安一座」が陣中見舞いに来られ、郷土の舞踊を紹介し、元気づけてくれた。》

 その後、日僑管理委員会からの連絡で中島さんら沖縄出身者は台北市に移動し、台湾総督府があった建物内に置かれた「集中営」に収容されます。

 《地方都市に住む私たちは家財道具を全て整理し、製糖会社の貨物列車に乗り込み、貨車で自炊をして一路台北に向かった。台湾総督府は半世紀にわたる日本統治の中枢であり、その威容を誇っていたが、米軍の爆撃で見る影もない残骸となっていた。》

 中島さんらはコンクリートの床に枯れ草を敷き、すみかとします。台湾側が支給する食糧で命をつなぎました。