日銭稼ぐ労働の日々 中島政彦さん 故郷へ帰る(21)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 慶田城 七瀬

 台湾総督府に設けられた「集中営」に収容された中島政彦さん(89)=那覇市=ら沖縄出身者は厳しい環境の中で助け合いながら共同生活を送りました。
 
 県出身兵士でつくる「琉球官兵」は日本本土への送還業務を支え、その後は集中営の運営を担いました。沖縄出身者を救済するため「沖縄同郷会連合会」が発足しました。沖縄出身者の自活組織「沖縄僑民総隊」も生まれ、食糧確保に尽くします。子どもたちの学校の授業も始まりました。
 
 当時の沖縄出身者の動向を記す「沖縄籍民調査書」にある沖縄僑民総隊の役員名簿の中に、総隊本部幹事の一人として中島さんの父、島袋嘉民さんの名があります。
 
 中島さんら少年も働くようになります。
 
 《集中営では寝食の心配はなかったので生活費を捻出すべく街に出稼ぎに出た。青年は基隆港で本土帰還者の荷役や人力車の車夫になって日銭を稼いだ。婦人たちは総督府周辺の道ばたで大事に保管していた和服を販売していた。私は三板橋にある日本人墓地のアルバイトを見つけ働いた。》
 
 夜は三線を爪弾き、苦労を紛らわせました。

 《集中営では夜になると兵隊が考案したのか、カンカラ三線の哀調を帯びた沖縄民謡が流れ、郷愁の思いにふけった。》

 台湾育ちの中島さんも民謡を聞き、まだ見ぬ故郷の姿に思いをはせました。